少女が窓側に座り、少年がそれに並んだ。
彼らの乗った車両には誰も乗っておらず、二人の耳にだけドアが閉まる音が聴こえた。
いまだ明るくなりきらない外の風景が、ゆっくりと彼らの視線の先を流れはじめる。
電車が、物憂げなアナウンスと共に海へ走り出した。
日の出はまだ少し先で、赤い目元を擦りながら少女が見つめた線路の向こうの空は、青白く濁っていた。
雲はなかったが、平たく重い、低い空だった。
少年は向かい合った座席の下につまさきをつけ、背もたれに頭を預けて目を閉じた。
そうして、息をはいた。
電車の映す風景は紙芝居のように次々と変わり、次の瞬間白い川面を下に悠々と橋の上を通り過ぎた。
未だ昇らない太陽の光を吸い込んでいるような、白く眩い水の道が目に残った。
二人がいつも歩いていた土手と橋が、窓の外を通り過ぎていった。
犬が散歩する時間では、まだなかった。
少女はずっと、黙ったまま窓の外を見ていた。
彼女の横顔を見ながら、少年は手を物憂げにあげて彼女の黒髪をゆっくりとなでた。
少女がゆっくりと振り返り、彼を見上げた。
「なによ」
「空が低いね」
そう言って少女の向こうの風景を、少年は静かに眺めた。
冬にしてはずっと低い空はそれでもひどく蒼く、太陽を待ち望んで広がっている。
「本当はもっと、綺麗なのにね」
「そんなこともないわ」
「そんなことあるよ」
落ち着ききった少年の声に、少女が顔を歪めた。
「別に、あたしはいいのよ。どうせ、どうせ」
「でも、君は言ったよ」
世界は、思っているよりも、本当はずっと。
「空はもっと綺麗で高くて青いんだ。今、そうでないのは僕のせいだよ。空が落ちそうなのは……僕が留守にしているからだよ」
「だから」
「うん、だから…そう。考えたんだよ。僕が帰ったら、きっとすべての悪戯が消えるだろうと思う。学生服を着てみたり、君と授業に出てみたり、テストの順位をつけてもらったり」
彼はくすりと笑って、情景を思い浮かべるかのように瞳を閉じた。
そして、薄く目蓋を開くと、少女を眩しそうに見つめた。
「本当に楽しかった。君といられた一年間を、僕だけは忘れない」
少女は目を逸らそうとして、どうしても出来なかったかのように瞳を揺らした。
正面を凝視したまま、彼の声を黙って聴き続けた。
一旦口を開いてしまったら、漏れるのが嗚咽であることは分かっていた。
「そうでないと信じたいけど、前もそうだったから、今度もそうなるだろうな。杞の国が伝説になったみたいに、僕がいたことだって多分全部なかったことになる」
彼女は少年を静かに見返した。
そして口を歪めて、彼に手を伸ばしかけ、思い直したようにゆっくりと下ろした。
俯いた少女を少年は愛しそうに眺めて髪に顔をうずめた。
「だから、考えたんだよ」
地平線の朱色が、ほのかに強みを増していた。
少年が微笑んで少女の手を取り、小さな紙を押しつけた。
「これくらいならお目こぼしをくれるかもしれないと思って、だから電車に乗ったんだ」
そして彼女の手を包んだまま、額をそこにおしつけて暫くそうしていた。
少女が口を開きかけて、また閉じた。
それから、少年が握っていないほうの手で、彼女は自分の髪に触れ、頬をなぞるようにゆっくりと指先を下ろして、また手を膝に置いた。
「あんたのこと、嫌いじゃなかった」
少年が、手から額をあげて、でもまだ下を向いていた。
少女はいつもの生意気な口調だったけれども、声はいつもよりずっと小さく、穏やかだった。
「あたしは、別にどうでもいいのよ。あんたがいようといまいと、嫌なことは嫌で、好きじゃないものは好きじゃない。世界はそんなに綺麗じゃないし、あの町だって」
無人の駅をいくつも通過して、電車は海沿いの線路に乗った。
少年が、握っていた手を解いた。
彼女は窓の外を見つめた。
過ぎ去る木々と丘の影に一瞬、白くきらめく海が見えた。
長い睫毛を伏せて、目を細める。
少女は、ほんの見えるか見えないかくらいに微笑んで、閉じた唇をはなした。
「何度も何度も、橋を渡った。あたしは川の海へ流れ行くのを見るたびに、いつか町を出ようと思ってた。あんたのことなんて、考えもしないで、そう思ったわ」
少年の手の感触が、完全に離れた。
優しい声が、少年のいる方から少女の耳に届いた。
「うん」
少女は、彼の方を見はしなかった。
先程押し付けられた硬くて小さな紙片を握る手の平にすこしだけ力を込めて、窓の外を見続けていた。
「大嫌いだったの。世界が全部、大嫌いだった。あたしは不幸のヒロインで、空が落ちるなんて最高だと思った。…あんたを引き止めたかったの。忘れたって構わないわ。あんたは嫌いじゃなかったけど、それくらい構わないのよ」
「好きだったよ、そういうところも。初めて僕は、ひとを好きになった」
少女は思わず振り返った。
そこには誰もいなかった。
彼女の手の平には、駅名→370円区間と黒い印刷文字が書かれた切符だけが残っていた。
会ったばかりのときと逆になる、と彼女は思った。
電車のアナウンスが、海の傍の駅名を単調な声で告げる。
少女は電車の窓を見た。
空は高く広く水色に世界を染め、地平線は光の塊を今にも迎え入れようと白く輝き、海鳥は高みを舞い、潮の香りが指先に触れるくらいにそっと届いていた。