目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
【WEB拍手おまけログ】
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「愛はすぐそばに」とかつて誰かが歌っていたらしいけれど、恋愛なんてものは結局非日常なものだと孝二郎は思う。
毎日毎日見ていたらときめきもくそもない。
女中の梅子は眼鏡が似合う涼やかな和服少女かもしれないが、改めてときめいたりはしないものだ。
非日常性においても、腰のくびれは寸胴より魅力的だ、と考えられる。

縁側で冷水に雑巾を浸す梅子が、何が嬉しいのか彼を見るなり目端を緩めた。
彼女はいつもそうだ。
目が合うたびに頬を染めて幸せそうな笑みを浮かべる。
言動は概して逆だったりするのだけれども。

春の花、揺り籠を聴く

(一)

昨今は女中を持つようなご家庭は少ない。
立派な庭に池があり、塀で囲まれ廊下は板張り。
雑巾がけは冷たい水で。
障子を開け去ると空が薄く青い。
離れに住む一家は先祖代々、大邸宅の一族に仕えている。
翻って本宅の次男坊はといえば、苦労など何一つ無い、いい御身分。

――同い年だけに、女中の身が恨めしくもなるものだ。

「坊ちゃま。お掃除いたしますので、そろそろ起きていただけますか。」
襖の前で懇々と語りかける。
既に日差しは高く、休日とはいえ屋敷の中も騒がしい。
手の甲で軽く襖を二度叩くと彼女は声を張り上げた。
「孝二郎君。いい加減に起きてください」
「……うるせえなぁ。起きてるっていってんだろ」
彼女は呆れて襖を眺めた。
明らかに寝ていたくせに、いつもこういう口の利き方をするのが「坊ちゃま」だ。
梅子は幼い頃から世話をしてきた孝二郎を思い浮かべて深く溜息を漏らした。
椿色の和服に齢十五の身を包んで、またも彼女は考える。
おかしい。まったくもって、おかしい。
「石の上にも三年」が座右の銘だったのに放棄したくなってきた。

――毎日毎日説教してきたというのに、全く効き目がないっ。

そう。
孝二郎坊ちゃまは怠惰の塊である。
五つ年上のお兄さま、宗一さまの出来が良すぎるのでひがんでいるのだ。
跡を継ぐわけでもねえのに、と次男を言い訳にして逃げている。
「まったくもう。孝二郎君はいつもこうなんだから。そんなに寝たって背なんて伸びませんよ。それに宿題も終わっていないんですから。春休みは来週まで」
「うっせえ。説教止めろよな」
襖に指がかかって引かれ、同じ背丈の少年がしかめっつらで現れた。
あちこち寝癖が飛んでいる。
「毎日毎日やかましいんだよ。起きてるっつの!」
「はい。おはようございます」
笑顔で迎えると、孝二郎はものすごく面倒くさそうな顔をしてふいと奥に戻ってしまった。
背中を眺めればシャツの襟がめくれている。
嫌がられると分かっていても直したくて堪らなくなるのは、あんな態度を取られても顔を見ただけでくすぐったくてたまらないのは、(認めたくないけれど)梅子が孝二郎を好きだからだ。

幼稚園でも小学校でも制服になっても、何から何まで傍にいて、一番迷惑をかけられどおしだったのにいつからどうしてこんな気持ちになったのだろう。
思い返せばいつでも喧嘩ばかり説教してばかり、参るような思い出こそあれ甘い記憶なんてほとんどない。
昔はお倉の奥で拾い集めたいやらしい本を好奇心に駆られてこっそり見ては幼いゆえの無謀さ無邪気さで真似しようとしてみたりもしたのだが、孝二郎はそういうことを忘れたいらしい。
唯一それらしい記憶とはいえ、やはり梅子も蒸し返したくないのだけれど。

昔はよい遊び相手だった少年も、遅い思春期が来てからは彼女に見向きもしなくなった。
日常に染まりすぎているのがいけないのだろう。
なにせ朝は彼が起きるか起きないかのうちから朝餉の仕度や雑巾掛けに傍を行き来し、学校へは鞄持ちとしてしっかと寄り添い、夜も遅くまで掃除や翌日の準備、雑事にかまけて本宅にいる。
寝る前に顔をあわせることもしょっちゅうだ。
れっきとした仕事なのだからしようがない。
七条家は本家に仕えて六代目。
両親が亡くなってからは幼いながらも代わりとして、親戚、通い女中たちに混じりながら期待に応えてきたつもりである。
現代なので時代錯誤も甚だしいのだけれど、本家の巨大さに大抵の疑問はいつしか忘れる。
ここで生まれ育ってきたならなおさらだ。

閑話休題。
と、いうことで残念ながら、梅子は孝二郎に女性としては好かれていない。
むしろ一般家庭の思春期男子が母親に抱く感情――邪魔、煩い、鬱陶しい――をもたれてしまうというわけだ。
分かっているんだけどなあ、と雑巾からしたたる水と部屋の少年を見比べて、梅子は溜息を漏らした。
まだシャツの襟がめくれたままだった。
孝二郎が振り返る。
「よぅ、梅」
「はい?」
「何おまえヘラヘラ笑ってんの」
「……」
手の中の雑巾がぎゅうと絞れて水が指の股に滲みた。
仕方がない。
苛められたって女に見られなくたって、本当は『孝二郎坊ちゃま』が傲慢でちっとも格好よくなくたって。
理由は分からなくとも、生まれてこの方、十五年。
彼女は真理を知り続けている。
……惚れた方が負けなのだ。
だけど悔しかったので梅子は幼馴染権限で身分違いの相手に躊躇なく雑巾を振りかぶって投げた。
勿論当たった。

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