(二)
そうこうしている間に彼女ができた。
同じ学校のクラスメートで、染井というポニーテールの少女だ。溌剌で世間知らずで、背が小さくて胸が大きい。好みだった。
車から降り門を越えて、傘を閉じがてら孝二郎は気だるく庭の池を眺めていた。
梅雨のせいだろうか。
「彼女と付き合う」というのは、もう少し面白いものだと期待しすぎていたのかもしれない。それなりに愉快で、いい思いだし、向こうも少々我侭ないいところ育ちなので感性はあわなくもないのだが、楽しくて堪らないというほどではなかった。
枇杷の甘たるいにおいが喉に残っているようなしこりは、慣れないことをしているからだろうか。
「濡れませんでした?」
「お坊ちゃま。お帰りなさいませ」
玄関で出迎えられるのを当然と流して、撓む廊下を奥へと歩く。
仏壇の祖父は線香のにおいに包まれていた。立ち止まって、障子の手前で手を合わせ、また部屋へとふらふら向かう。
春海叔母のいない気配(最近よく来るので参っている)を確認してから、襖をかすん、と引く。
洗濯物が積んであった。
書物机の端に散らかしたCDと詩集が重ねて揃えてある。
それから、もうひとつ違う色が目に留まった。飾もそっけもないうすぺらい茶封筒が卓に乗っている。
手紙だ。
雨脚は弱まることなく古屋根をノイズのように打ち続けていた。
取り上げて、手近な座布団に寝転がり、宛先をみとめ、瞬きした。
自分宛のそのペン字は、誰よりもよく知っている懐かしい字体だった。
もう、二ヶ月になるか。それともまだ一ヶ月も経っていないのだったか。
身分違いで自分を好いていた、丸い眼鏡に茜の和服、なだらかな尻。
「……何、の用だか」
天井に封筒を透かしてぼんやりと眺める。
妙な心持だった。知らず溜息が出た。
封筒の糊付けを破りながら剥がす。
便箋はきれいに三つ折りされていた。
そんな筈もないのに開いた瞬間、枇杷の甘い香が漂った気がした。
実際は女中達の廊下を横切る足音と夕餉のにおいに、他ならなく、また降り続く湿気のこもった紙のにおいを思い違えたのかもしれなかった。
薄い花柄を三枚重ねて、顔を横にして『前略』から視線を下げていく。
便箋の角端に指先がべたつく。
『
前略
一体何から書けばいいのでしょうか。
思えば四六時中傍にいたせいで手紙なんて数度も書いたことがありません。困ってしまいますね。
ともあれ、手紙ではありますがおひさしぶりです。
お元気にしていますか? 私は風邪を引くこともなく、以前と何も変わりません。髪が少し伸びましたし朝の目覚めは快適です。興味ないですよね、多分。
新しいお仕事にも慣れてきました。梅雨は明けませんが、日毎に夏が近づいています。
最近ようやくあなたのことを冷静に思い出せるようになりました。
あなたが、私のことを嫌いだったわけではないと分かっています。ただ鬱陶しかっただけだというのも、どうでもよかったというのも、知っていました。どうして知らないなんてことがあるでしょう。いつからそんな風になったのかと思い返してみましたがどうしても記憶が曖昧です。
親戚の集まりから逃げることをやめたのは中学生でしたから、そのころかもしれませんね。一緒に抜け出した遊び場が改築されてしまうと聞きました。あの頃広げた絵巻の類を、もう見ることができないのは淋しく思います。
淋しいといえば、小学生の頃貰ったお守りを離れに置いて来てしまいました。大事にしていたので残念です。(覚えてないと思うのでいいですけど。でも残念です。)
私は孝二郎君が好きでした。
幼い愚かな勘違いでしたけれど、思い込みでもあったのですけれど、それでも、やっぱり傍でいろいろお世話をできるのが嬉しくて、毎日はとても楽しかった。
おそらくこれからも暮らす世界は違うままで、私も私なりの似合った人の傍にいるでしょう。それでもいいです。最近やっと、落ち着いたのです。もうそのような気持ちで向坂の皆さまを煩わせることはないと思います。
物心がついて以来一日たりとも、あなたを好きでなかった日はありませんでしたけれども。
たまには離れてみるものですね。
それはそれで、風が優しく、周囲の人は変わらず騒がしく優しいです。
それでは。
もう少し早く起きて、授業もきちんと受けて、洗濯物は裏返さないでください。南瓜の煮物を残すのはあまり良くないと思います。ずっと我慢してたので今言うのはずるいと思うのですが、気まぐれで口が悪いところ、気をつけてほしいです。私以外にそれをやったら、女の子にはもてないよ。
今までずっとありがとう。
十六年を幸せに彩ってくれたことに感謝します。
草々
向坂孝二郎様
』
差出人の書名がなくとも誰からなのかは充分に理解していた。
孝二郎は手紙を丁寧に折りたたんで封筒に戻した。裏返して住所を探したが記されていなかった。
息を殺す。
「……っ」
額を押さえると呻きが切れた喉際に滲んだ。
手紙を握り締めると皺ができて宛先の名が歪む。
夕餉はどこかしら水のにおいをしていた。
心臓が痛む。
今更だ。今更、湧き上がる。
どうしようもない。
……心臓が痛む。
感傷なのかそれとはまた別のものなのかも伏せる目の下で不鮮明になった。ただ、遠くで幻聴のようにいつかのあどけない呼び声が蘇り記憶が震えた。
彼女が息を呑んだ次の瞬間、自分はなんと言ったろう。
数分か数十分か、意識が水面に浮かぶようになり、やっと、彼は思い当たった。雨音に紛れて封筒をかさりと裏返す。
――消印は薄く、それでも北海道の地名を読めた。
電車だってまともに一人で乗ったことがないと、そうして孝二郎は十五で初めて思い至った。