sukuinokami
新緑の匂いが駅近くの広い公園に満ち満ちている。
風はもう夏のようで、いつしか午後は暮れていた。
空き缶を捨て、後ろで結わえたウェーブがかる髪をなびかせて、残業に戻らなければと職場のビルへと歩き出す。
――高校生の時分には、自動販売機の缶コーヒーなんてもっと珍しいものだった。
有野染井は薄れていきながらもまだ青さを湛えた空を仰いで眼を細めた。
ポケットの中の真新しい携帯端末は何日待っても震えることもなく、彼女にただ実感だけを与えてくる。
公園の出口で立ちどまり、また歩きながら電話をかける。
夕暮れ前でもう仕事じまいなのだろう、案の定、コール五つですぐに出た。
――高校生の時分には、自動販売機の缶コーヒーなんてもっと珍しいものだった。
『よう』
「……おじさん、元気?暑くなったね」
スーツ姿の人波を横目にデパート脇の通路を曲がった。
眼に映る都会には似合わない、品のない笑い声がくつくつ耳を震わせる。
『なんだ。嬢ちゃん、またフられたんか』
「うるさいなぁ……」
失恋の度に電話している自覚はさすがにもうある。
もう何度目だろう、三度はきっとくだらない。
「あのね」
『ん』
「今どこ?」
『富山だな』
「じゃあ、山の絵が欲しい」
『はいよ』
おじさんのことなんて別に好きじゃないのだ。
ちっとも好みじゃないのだけれど、誰にも大事にされていないと感じる夜に、あの優しい線の深みを見つめているとまだまだやっていけそうな気がするのだ。
特にこんな、陽が落ちた後で急に涼しくなるビルの陰、にいて、一人きりになってしまったそんな日には。
親に反対されながらも、家のためになる結婚も保留して続けている、仕事へ向かう意味が分からなくなってしまった日には。
誰も傍にいない夜の手前の交差点にいても、一番空虚な部分が、確実に救われている。
高校一年生の時、もっと髪を高く結いあげていたあの頃に、函館のビジネスホテルで、孝二郎が荷物に入れ忘れた個展のはがきを拾い上げたあの日から。
――時々ねだり、送ってもらえるスケッチブックの切れ端に、ずっとずっと。
「いつもお仕事してるのに、ごめんね」
『んや。つーか、いつも落描きみたいなもんだが』
「……私、おじさんの絵、好き。ほんとよ」
『絵だけじゃねえだろ。オレに惚れてんだろ、素直じゃねえなぁ』
「ばーか」
揶揄する判り切った冗談に肩を竦めて笑い、沈む陽の梢を見やり。
久しぶりに笑ったな、と染井は思った。