目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
【WEB拍手おまけログ】
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(二)

「おーい、お嬢さん。ちぃっと静かにしてくんね?」
「なによう。すいてるんだからいいじゃない、おじさんこそ別のところ座れば?」

微かな雑音に、薄眼を開ける。
電波の悪い携帯ラジオの向こうで、傍迷惑な小競り合いが聞こえた。
「いいのかねえそんな態度で。サボりいけねぇなあ。通報しますヨ」
「う……っ、や、やってみたらいいでしょ!? 別に困らないですー。だいたいそんなに大きな声出してないじゃない!」
嫌々ながら横を見れば、前の席に座った親父と制服姿の彼女が何やら揉めている。
現実逃避に無理やり寝たのが間違いだった。起きたら彼女がいなくなっているわけでもなし、……事態がますます混迷しただけだ。
孝二郎は仕方なく意識を浮遊させるのをやめてイヤホンを片方外した。
「染井、失礼だ」
「あん、いたっ」
ポニーテールを軽く引いてさらなる喧嘩を押し留め、渋面のまま溜息をつく。

なぜこんなことになっているのか分からない。

むぅと膨れた彼女から顔を背け、自動ドア上部の電光掲示板の文字を追う。「大型の台風13号が東海地方に上陸し、関東も夕方過ぎから大雨になる見込み」、らしい。言われてみれば、車窓からの景色も昼時にしては薄暗い。
黒字に光るオレンジ色は天気予報を繰り返し無表情に伝えてから経済ニュースへと話題を変えていた。


県境を越えて目を開けてもまだ彼女はそこにいた。
冷めた珈琲を飲み干すまでに停車駅を幾つも過ぎたが、一向降りる様子もない。
新幹線に乗るのが珍しいのか、窓際の席を替わってほしいとねだり、先程からずっと窓に張り付いている。
軽く揺れる毛先の向こうに目をやると、灰色の空にまばらな田園地帯が広がっていた。
染井は冷麺だとかアイスクリームだとか上機嫌だが、正直そんなことはどうでもいい。
重要なのは、機転のきく彼女が秋田新幹線を使って難なく追いついてきた容赦ない現実であり、どうやっても帰る気などないというその一点だった。
もう一度説得しなければならないと、孝二郎は何十回かの躊躇を経てからようやく苦い言葉を噛んだ。
「……染井、ちょっと」
「なーに、こーちゃん」
名を呼ばれた少女は笑顔で振り返って、豊かな胸を押しつけるようにして腕を掴んだ。薄布越しで柔らかい。
孝二郎は心の中で己を散々罵倒した。
そうじゃないそうじゃない。
「あのな。ええと。とにかく、途中で帰れ」
「えー」
「だから、親戚んち行くんだって。遊びじゃなく」
「もう、私いたらそんなに邪魔?」
拗ねた顔で腕を組み換え、膝も揃えて寄せてくる。
スカートが短いので白い太ももの間の影に思わず目が行く。……なぜか、それほど心が動かなかったので彼は黙って目を逸らした。
「そもそも、電源切ってるこーちゃんが悪いのよ。急だと驚くだろうから、メールだってちゃんとしたのに」
「……」
それを言われると弱い。確かに事前に察して逃げるなり追い返すなりできたものを、ふいにしたのは彼自身だった。膨れた頬が無邪気に綻ぶ。
「学校サボるなんて初めて。ね、行っていいでしょ? デートだって夏休み以来なんだもの」

またも説得に失敗したので孝二郎は途方に暮れた。

……彼だって学校に行かないのは意外なくらい初めてで、 ただしそれは別に孝二郎が真面目だったわけではなく、幼稚舎時代からの慣習でしかなかった。
眠った後は同い年の少女があたりまえのように起こしに来て掃除に出て行くのを着替えながら見送って、それから朝餉を一緒に食べて、連れ立って鞄を持ってくれる。
当たり前だった日常に登下校が組み込まれていたというだけの、ささやかな理由だったのだ。
――そう考えてみれば日常はいつしか穴だらけで、孝二郎の家は既に家ですらないのかもしれなかった。

絡む腕を振り切って手洗いに席を立ち、通路で人心地つく。
買い込んだ地図と挟んだ手紙を、ジャケットから気付かれないよう取り出した。

消印の地名が指すところまで、どうやって行けばよいのかは見当もつかない。
やまびこも終点が盛岡というから盛岡までの切符を買ったがそれ以降は分からなかった。まずは青森新幹線なのだろうが、窓口で捕まったならおしまいだ。
運良く切符が買えて乗れたとしても、青函トンネルの抜け方も知らない。どれもこれも自力で考える他はないのだ。
友人にも兄にも海外在住の父母にも、相談などしなかったし、何を話すべきかも分からなかった。
ごんごんとトンネル内特有の響きが耳朶を打つ。

今さら何をやっているのか。
会ったところで何を言いたいのか。

散々考えて時間を浪費して。試験休みも夏休みもあったというのにそれも無為に過ごして、――結局はいても立ってもいられなかった。

命令ですか、と梅子が尋ねた後に自分はなんと言ったろう。

そのときの表情がどうしても、思い出せなくて誰へとも無く腹が立つ。

寄りかかる出口脇の通路は静かだった。風にたわむ木々とごうごうと通り過ぎる田畑と、まばらに陰る民家の影。
また次の停車駅を知らせるメロディーが軽やかに鳴る。
じきに盛岡、新幹線の終着駅が近づいていた。

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