目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
【WEB拍手おまけログ】
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(二)

旦那さまに尋ねられて出来れば同じ高校が良いと答えたのは確かだけれども、本当に通わせてくれるとは信じていなかった。きっと公立か名のない私立かどちらかで、場合によっては高校も行かずにいよいよ女中の仕事に専念する頃合なのかな、と半分覚悟もしていた。
それでも、人目を気にせず「孝二郎君」と呼ぶことができるのは学校だけなのを梅子は知っていたので、我侭だと分かっていて口にするだけしてみたのだ。
本当に通わせてくれるとは、ちっとも信じていなかったのだ。


暮れる校舎の廊下を一人、週番日誌を抱えて歩く。
窓から向かいの渡り廊下が見えた。孝二郎坊ちゃまが知らない顔で、見たことのある女子と談笑していた。確か財閥のお嬢さまだ。無造作なポニーテールも屈託のない笑顔も上品だった。
開いた窓から夕べの空気が入り込み、髪が風をはらむ。複雑な思いを飲み込んで、廊下をそのまま通り過ぎた。

それでも長い付き合いだから。
この時間に残っていることで今日は帰りを待っていてくれたと分かった。

すごく嫌な顔をして、何で俺がとぼやきながら、なぜか坊ちゃまは一人で帰らないときがある。そのくせ「友人と帰りたかった」とか意地悪を言うので、決まって帰りは喧嘩になるのだけれど。

職員室に日誌を届け、教室に戻ると土日ともつようにたっぷりと、一輪挿しの水を替える。数人残っていた級友は皆、自分のように雑巾がけなどしないのだろう。
小学校でも中学校でも中々友人ができなかったのは、毎日の過ごし方が周囲と違っていたことが一番大きかった。共有できない日々が積み重なっていくからか、年を重ねるごとに級友との会話が難しくなっていく。
思い耽って廊下のロッカーに教科書をしまっていると、左隣に影ができたので見上げた。
ブレザーのネクタイがきちんとなっていない。
「孝二郎君」
「まだ終わんねえのか、梅」
「もう帰るところだけれど。一緒に帰ってくれるんですか、珍しい」
からかうように笑うと、坊ちゃまは学校では敬語やめろ、とぼやいた。
悪態をついて先に行くぞと去っていく後姿に彼女は眼を細める。
これだから梅子は身の程知らずにも一緒の高校に通いたい、なんて言ってしまったのだと孝二郎は知っているだろうか。

校庭の桜は盛りを過ぎて若葉を混じらせており、夕風が吹くたび花びらが散った。砂利を蹴るようにして少し離れた斜め前を孝二郎が先に行く。
部活動の掛け声が響いていた。
頑丈な校門と高い塀に、整備の行き届いたグラウンド。自分が卒業以降交わることのない世界だ。
「桜、散ってしまいますね」
「んー」
相変わらずやる気のない返事に苦笑して、梅子は前に手を伸ばした。
「んだよ」
「はい。お鞄持ちますから」
「いいって。持てるっつの」
「今更、気にしたって仕方ないじゃないですか。皆さんそういうものだと思っているみたいですよ」
孝二郎は不服そうに眉を寄せ、それから革鞄を押し付けてきた。
中身が軽いので、梅子でも難なく抱えられる。
「孝二郎君」
「ん」
「今日は、待っていてくれてありがとうございます」

坊ちゃまが自分を待っていてくれるのはまったくありえないことではなかったけれど、それでも珍しいことに違いはないのだ。こんな涼しさの前の夕暮れに、川を渡って隣を歩けるような日にそうしてもらったことが梅子はとてもくすぐったかった。

孝二郎はなんともいえない表情で口をひん曲げ、無言で足を速めた。
「もう。待ってください坊ちゃま」
「外では坊ちゃまと呼ぶな。あとついてくんな。別の道で帰れ。これだから彼女ができねえんだよ。お前のせいだからな」
「自分が一緒に帰ろうっていったくせに」
梅子は背中に向けて肩をすくめた。
孝二郎は高校生になってから彼女がほしいとばかり言う。
「言ってねえよ。梅がついてきたんじゃねえか」
「言いましたよ、眼で」
住宅街の道を車やバスがたまに通る。
高い街路樹と落ち着いた家並みに横から日が淡く差していた。
孝二郎は平然と隣に並ぶ長い髪の幼馴染をちらと見やり、諦めたように歩調を緩めた。というよりも、隣はもう自宅の塀だったから急ぐ必要もなくなった。
道路沿いの長い塀を辿って、バス停を過ぎると自宅の門につく。
梅子は横手の通用口から入ることになっていた。
「それではここで。鞄、こちらです。宿題もちゃんとしてくださいね」
「毎日毎日飽きずにそれかよ。うるせえなぁ」
投げやりな台詞に梅子は顔をしかめたがぐっと我慢して鞄を投げつけるだけで自分を抑えた。
孝二郎坊ちゃまは呻いていたが気にしない。
「着替えましたら、あとでお茶持っていきます」
それだけ言い残して、離れに去る。
戸籍上の養父母は実質同僚のようなものなので、お帰りもただいまも仕事の『お疲れさま』と同じだ。

孝二郎の好きな玄米茶を淹れ、相手の落ち着いた頃合を見計らって運んでいく。最近はめっきり少なくなったけれど、孝二郎の機嫌次第では、一緒に縁側でお茶を飲むこともある。

結局のところこれが梅子の憶えていた幼い頃からの日常だった。
生まれる前に父が、物心着く前に母が亡くなって、養父母はただひたすらに厳しかった。仕事が出来なければぶたれた。遠慮なく本音をぶつけられた相手は幼馴染の孝二郎だけだった。
自室のカレンダーを捲り、明日は十六の誕生日だったと今更に気づく。
もしかして、明日は休日だから、その代わり今日だけ一緒に帰ってくれたのだろうか。梅子の都合のい解釈なのだろうか。いいお茶の葉をこっそり使ってしまおうかと梅子は本宅への渡り廊下を歩きながらほつれ髪を耳へかけた。
夕暮れ時はまだ涼しく、日は重ねるごとに長くなっており、春はもうすぐ終わろうとしていた。

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