目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
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(四)

梅子が知らない間に見合いをしたと老女中から耳の端で聞いた。叔母の春海が勝手に押入れで見つけた写真の山から選び、宗一に詳しい話を聞いて二人でさっさと勧めてしまったらしい。
登校中も学校でも下校の道でも、黙り込んで口を利かないから何も知りようがなかった。
喧嘩中なこと以外はいつも通りの日々と思い込んでいなくなったことなど気づかなかったのに、いつの間にしていたのか本当に分からなかった。

「孝二郎坊ちゃまに関係ないですから」
廊下を掃除している姿を見かけて逃げられるまえに袖を掴むと、そんな憎たらしい口をきかれた。さらにぞんざいに腕を払われそのうえ雑巾を投げられた。
自分の名前をこの女中に呼ばれることすら数週間ぶりだったというのに、なんという仕打ちだろう。
雑巾を投げ返すと梅子があっさりと受け止めて膝を屈めた。
もう話は終わりだとばかりに金属盥に張った水へ、雑巾と手首までをつけて擦り合わせる。態度と逆に、肘先だけが蠢きながら柔らかい。
孝二郎は口を開きかけて閉じ、持て余す苛立ちに梅子を睨みながら同様に膝を折った。
わざとらしく雑巾の水が飛んだ。
「坊ちゃま。邪魔です」
「お前な……」
「御用がないなら他へいらっしゃってください。そっちが迷惑だって言ったんでしょう」
梅子は雑巾を絞る指先を、少し止めてから何気なく硝子戸を仰いだ。
ぽつりと庭園の玄武岩に、黒いしみが落ちかかり風が湿気る。
絞られた後の雑巾のように。
ぽつりぽつりと、少しずつ雨が降る。
梅子は結い上げた髪を風に揺らすままに、片手を伸ばして硝子戸を締めた。がらがらと古びた響きが床板にしみる。
無視するようにただ彼女は暗がりの庭だけを見ていた。
埒が明かないので孝二郎は黙って立ち上がって傍の柱を蹴り、彼女を追い越して自室へと向かった。
「………」
絞られた雑巾のような、泣き声でも聞こえるかと思ったのに、聞こえなかった。
一度振り返って耳を澄ませてからいつも自分が泣かせていた女中の面影をふと手のひらで思い返して、いつまでもあれが泣き虫だと思っていた自分がばかばかしくなり妙に気分が淀んだ。
いつまでもああしてくっついていられたら迷惑だった。もう高校一年で、孝二郎だってそろそろ彼女が欲しい。
「そうだな。そうだ」
一人ごちる。
暫し柱を眺めてから、踵を返した。
角を曲がって、梅子の掃除をしていた離れの近い客間の廊下へ、無言で戻った。廊下にいなかったので客間を覗いた。
相変わらず掃除をしていた。ただ呼んで、見合いがどうなったかだけを、もう一度事務的に尋ねる。
梅子は孝二郎を睨んだ。
「断わったのか」
「……うるさい。しつこい」
丁寧語でなく話されるのは本当に久々だった。ものも手も飛んでこないのも珍しかった。
「断わったのかよ」
梅子はそれでも無言で目を逸らしていた。
もっと別のことを言おうと思っていたはずの孝二郎はそれで気分を変えた。
強まっていく雨だけがうるさい。
なぜこういうときに限って人がこの場所を通らないのだろう。
おそらくこんな静かな諍いは、お互い生まれて初めてだった。
先に折れたのは我慢の足らない方だった。孝二郎が嫌そうな顔のまま、考えるより先に口を開いた。
「何だその程度だったってわけか」
女中の視線が動くのを見ずに吐き捨てる。
「見合いあっさり受けちまえるくらい簡単なのにああやって俺の邪魔してたのかよ。そんなどうでもいいんなら、何で高校までついてきてんだよ」
「……そ、」
ささやきが耳に届く前に言葉が続いてしまった。
「遠まわしなことするまでもねえよ。俺はお前のせいで何にもできねえしどうせ邪魔なだけなんだ。手伝いなんて別にお前じゃなくても誰でも出来んだよ。今すぐ出てけ!」
後戻りができない一言というのがあるとしたらこれだった。
雨粒が硝子を暫く打ち風が屋敷をがたがたと揺らした。
息を飲み込んだまま、金盥を蹴って踵を返そうとした背中へ「命令ですか」と梅子が尋ねた。

翌日も翌々日も、起こしに来たのは老女中の若葉だった。
週明けには学校に一人で行くか送っていくかを尋ねられた。
玄関に梅子が姿を見せなかった。
誰も急かさず唯一人、毎日続けてほしいくらいの気楽な登校だった。
だらだらと歩いていたら一時限に半分遅刻した。
どうやって入ろうかと言い訳を考えながらぼんやりと教室前を往復しているところでふと足裏が床に張り付いた。

ロッカーから七条梅子の名前が消えていた。

クラスメートの詮索と出席簿に引かれた斜線は冗談のようだった。
風が湿りを帯びている六月の窓は暗かった。晴れ間の見えた夕方にも、狐の嫁入りというのだろうか灰の雲から霧雨が温く降りしきる。
――その晩兄に呼び出され、冗談には終わらなかったことを孝二郎は知る。
「梅、どっか行ったのか」
「お前が気にする必要がないことだよ」
兄は咎めるふうでもなく手元の本を捲っていた。
湿気に篭って紙が僅かによれていた。

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