第三章 『木ねずみ』
(一)
ちろちろと人差し指の裏関節を舐められ続けている。
手首から肘へと淡い痺れの音は枝をぽきりぽきり手折っていくようかすかに、彼の理性を僅かずつ丁寧な指先で扱きあげて舐めとっていく。
粘り気のある生温かい肉の弾力。第二関節辺り、左手、青い静脈の透き通るあたりに唾液がたれている。
指を挟み飲み込む上唇の感触と、赤い舌先に背が波うって腰が震えた。
――微かな振動に、目が覚めた。
『……間もなく、福島。福島に到着いたします。福島で、つばさと切り離しをいたします。13号車、14号車――』
新幹線の自由席だった。
鈴のようなメロディに続いて流暢なアナウンスが周囲をざわめかせ、寝惚けた脳を揺り起こす。
「なんだ今の」
妙に下半身にくる夢を見た気がする。
脚を動かして変な形跡がないか確認してみるが特に濡れた様子もない。
ほっとして曖昧な眠りに落ちかけると、座席ががたんと背中の方から揺らされた。後部座席のサラリーマン達が、降りる準備をし始めたらしい。
夢の続きを見られないのは残念だが、眠りに戻るには半端だった。
頭を幾度か振ると、孝二郎は姿勢をただした。
いまだ朦朧とした意識を瞬きさせて窓際の紙コップから珈琲を口に含む。
温いどころか冷めていた。
畝と稜線が波打ちながら続いていく。
窓の外はもう、孝二郎の知らない土地だった。
腰の裏が震える。尻ポケットの端末だ。
先程起きたのはこれか、と思いつつ取り上げれば、彼女からの着信とメールが何通も来ていた。最初の一、二通だけ適当に眼を通し、電源ボタンを長押しした。あとが気まずいだろうが、帰ってから考える。
画面が黒くなったと同時に車窓はトンネルに飲み込まれて一瞬闇に染まり、また田舎の風景へと清々しく抜けた。
奥羽山脈だろうか、地平線が高くて遠い。
それでも停車駅が近づいているせいか、視界の端で山は灰色の建物に取って代わりつつあった。稲穂よりも住宅の屋根、畑よりもスーパーや低いビル群が目立ちつつある。
緩々と速度が落ち始めた頃にはビジネスホテルやシティホテル、金融会社の広告のついた背の高いビルなどが立ち並ぶありふれた都会の風景へ。
見飽きることなく車窓は刻々変化していった。
ホームが見える。
ガタン、と数度揺れて紙芝居はいったん止まった。
ぼんやりしている孝二郎を尻目に、周囲は乗り降りで騒がしい。
遅い里帰りなのだろうか、子どもが泣いている。
大きな荷物を持った髭面の男が、座席と膝の間にスーツケースを押しこみ、壁に面した前の座席に屈んでいる。
『――福島。福島です。お降りの際は、忘れもの等ございませんようご注意ください… 』
窓際に置き放していた特急券を見返す。盛岡まではまだしばらくのようだった。
音楽でも聴こうかとリュックサックをあさりだした孝二郎の斜め上で、視界が揺れた。
大きな荷物を抱えていた男が、座席の隙間から、おっと、と振り返る。
「すいません、背中倒していいスかね」
気安い口調に返事の仕方も分からず、孝二郎はイヤホンを耳に掛けながら頷いた。
すぐに背もたれが倒されてきたが、たいして深い角度でもなかったので安心してミュージックプレーヤーを操作する。
……知らない人間との会話は苦手だ。
動き出した新幹線に女性のアナウンスが到着時刻を告げ、電光掲示板の天気予報が橙の文字で鈍く光っている。
盛岡駅到着まで、あと二時間弱。音楽でも聴いてうとうと眠っていれば着くわけだ。
初めて一人で旅をしたが何ということはない。やってみれば簡単じゃねえかと、孝二郎はすっかり気を抜いて目を細め、背を椅子に預けた。
車窓の景色は、遠い稜線と夏の終わりの田畑の色にゆっくりと染まりだしていた。
仙台でまたさらに人が降りた。
ホームを眺めるに、秋田へ向かう高速新幹線に乗り換える人が多いらしい。
時間の関係とおぼろな記憶で盛岡駅までの切符を買ったのだが、どうせなら青森県まで新幹線でいけば良かったかもしれない。
もっとも、そんなことを考えている余裕はなかったのだ。
窓口で不審がられた朝の出来事を思い返し、孝二郎は溜息をついた。
彼女に「大人っぽい!」と受けたことのある私服でも、駅員達には大学生に見えないらしい。
それどころか背丈で中学生に間違われていたような気さえする。考えたくないが。
ともあれ、仙台駅を出たやまびこの自由席はがらがらだった。
出発してきた東京とは違い、水田は金に染まり、濁りの重い秋の空は涼しげだ。
端末の電源は落としてしまったので、なんとなくの到着時間しかわからない。が、腹は減った。盛岡駅で昼にするか、ワゴン販売が宣伝する牛タン弁当を買うべきかの思案に暮れる。
自動ドアの開く音と、ぱたぱたとした足音が背から聞こえる。
続いて女性の影が目端に映ったので、ワゴン販売がきたのだろうかと孝二郎は顔をあげた。
――その人影は、軽やかに通学カバンを膝に抱えて隣に座った。
「見つけた、こーちゃん。どこ行くの、一緒に行こ?」
孝二郎は目の前の少女を穴が空くほど見つめた。
明らかにここにいるはずのない「彼女」が、してやったりという満面の笑みで、ポニーテールをかすかに揺らしてそこにいた。