(四)
静かな階段を三階まで上がり、白い廊下を三ドア分過ぎる。
看護婦とすれ違い目でスカートから伸びる脚を追った。
廊下から常緑樹と空が見える。
肩より短い髪型は、初めて見たので孝二郎は入り口で佇み顔を背けた。
久し振りに琴子のいない隙に入れたと思えばこれだ。
梅子が暑そうにさらりとかかる髪を抑えて、病院服で奥にいる。入り難くて入り口にいると、こちらを見ていないのに落ち着いたトーンが呼んだ。
「孝二郎君」
「……んだよ」
「何してるの」
定員四名の病室は斜め向かいに一人骨折した老人が入院しているだけで、昼は妙にのどかで静かだ。
残暑の道のりに孝二郎の制服も僅かに汗ばんでいる。
孝二郎は押し黙り、頭を軽く掻いて溜息をついた。つかつかと近くに歩き窓際の丸椅子に座り、がたんと音を立てる。
大分この夏で背が伸びた。
斜向かいの老人はすうすうと眠っている。
どこかでナースコール、看護婦や掃除のおばさんたちがワゴンや荷物を抱え廊下を過ぎていく。
平日の午後であるから見舞い客も多くない。
梅子は何もいわずに孝二郎を眺め、本を脇に置き、自ら誰かの置いていった梨を剥き始めた。
薄い象牙色はみずみずしく、甘い匂いを秘めている。
窓の外はまだ眩しいのにひぐらしが既に鳴いていた。
耳たぶの柔らかさが頬の線が見慣れない。
少年は顔をめぐらせ丸椅子から背を屈めるようにして幼馴染を見つめた。
梅子がしん、と器用に手の中だけで梨を切る。
仄かな香りがした。
はらりと落ちた梨の皮を、見もせずにまだ歩けないままの少女は時計を眺めて手を動かす。
「孝二郎君」
「ん」
「授業はどうしたんですか」
「説教かよ」
孝二郎が難しい顔をする。
彼女の肩は薄くしかし喧嘩別れで追い出したときよりは丸みを帯びていて、横顔に唇がほんのり色をつけていた。
ほとんど病院服もシーツも汚さず皮を纏めて孝二郎の膝脇にあるゴミ箱に捨てる。
手首に覗く傷は腕の奥まで断続的にあった。
梅子が、梨を食べながらこくこくと頷くように顔を伏せる。
郊外の風はビルの谷間の通り道より幾分優しい。
病院特有のかおりは、それでもかつての台風一過の重い日を記憶にとらえて離さないものだ。
琴子が来ると追い出されるので、春海が来ても追い出されるので、時折入り口をちらと見ておく。
それも聞き慣れた声ですぐに視線を引かれ戻った。
「坊ちゃまも食べますか」
「別に、いらね……」
言いかけて不意に、あーん。と指でつまんで差し出されて孝二郎は椅子ごと後じさった。
ガタガタン、と騒々しく蛍光灯に響く。
「――ばっ、おま、冗談」
「冗談です」
満足な声音に、かなかなとひぐらし木漏れ日は残暑にさわさわと鳴る。
脱力した首から上の皮膚が熱い。
孝二郎は押し殺した溜息に椅子をガタリと戻し、肩を落としてから両指先を組んだ。
向かいの病室からだろうかニュースが聞こえてきて病院というのにそれでも今は日常でありすぎた。
「梅」
「なんですか」
「ん、……別に、なんでもねえや。呼んだだけ」
膝上で組んだ指をほぐして、いらなくなった皿を受取り脇に置く。
指が触れ合いかけたのを反射的に避けて危ない受取り方をした。
梅子が見上げてくる。
見返すほどの勇気がなかった。
立ち上がって時計を見た。
大抵この時間になればどこかのお嬢さまが定期検査を終えて立ち寄りにくる。
「俺、帰るわ。じゃあまたな」
「孝二郎君」
「ん」
「この前、宗一さまがいらっしゃったのだけど」
孝二郎は黙った。
知らなかった。
そうして、もう昔のように自分のことを呼び時折敬語をやめている彼女の兄に対する自然な物腰は変にゆっくり喉を押さえこんだ。
「何の用で。叔母さんたちの屋敷修復不可能、取り壊しってあれか」
「それも知ってます。一昨日宗一さまに伺いましたから」
「あーそうかよ、一昨日ね」
兄がまさかこの元本家の女中の見舞いに来るとは考え付きもしなかった。
孝二郎は自分でも分からない納得のいかなさに口を歪めた。
「で、何だってんだよ、そ」
メロンパンが飛んできた。
戸口に足首にだけ包帯を巻いたリボンをつけたほうの叔母が立っていた。
梅子が諦めたのか、呆れた息をついて、やがてふわりと笑う。
孝二郎は頬にぶちあたったメロンパン(袋入り)をつまんで戸口の女性を横目で睨んだ。
「いきなり何すんだ」
「うるさいわね。オチビの分際で、一旦追い出しておいて、どの面下げて来てるのあんたは。出ておいき、わたくしの梅子にこれ以上傷をつけないで頂戴っ」
「琴子さま。お気持ちは有難いのですけど、他の患者さまがいるんですからお静かに。じき奥さまになられるんですしもう少し公共の場での常識というものを」
「……なっ何よそれ誰のために言ってると思ってるのよ」
勢いよくベッドサイドまでやってきて琴子お嬢さまが拗ねる。
どんな話をしていたのか、忘れたかったし事態がややこしくなるのは好まなかったので帰ることにした。
「あ、そうです坊ちゃま」
琴子の手前かそう呼ばれた。持ち直した鞄を肩に突っかけながら振り駆る。
「ん」
「先程言いかけたことなのですけれど、私がこれから」
「うん。何だ」
退院したら本家に戻ると周囲の話では聞いていたから、そこでどうだという話かと目を向ける。
屋敷が地すべりで埋もれ半壊したため、借り部屋のある春海はともかく琴子は一時的に実家である孝二郎の屋敷に戻っていた。
それでもじきに、仕事で関東を離れる恋人についていくために籍を入れると聞いていた。
長い黒髪を揺らして琴子が意地悪そうに同じくらいの背を見やってふふんと笑う。
「あら、おまえ聞いていないの。いい機会だから清助のところに貰ってもらおうかという話なのよ。あざみの方は早々のおめでたで暇を出してしまったし、わたくし付きが他にいないの。宗一や梅子の保護者に異存なければ、これから嫁に行く先に、一緒に梅子は連れて行こうかしらと、そう思ってるのだけれど?」
風が生温かい。
向かいの老人に見舞い客の孫達がやってきた。
孝二郎は、鞄の取っ手を握り直して、挑戦的な琴子を暫し眺めた。
それから、見たくなかったが仕方なく髪を切ったばかりの幼馴染の女中へ顔を向けた。
嫌味な兄を思い返す。
夏に出会った年上の絵描きの友人や、あれからも話ばかりは良くするポニーテールに、夜行列車の抜けたトンネルに朝風があった。
あのときの電車から見た夜明けは美しすぎた。
電車は幾ら気が急いても一定の速度でしか走らず、世の中はままならないものと思い知る一夜のことだ。
「梅がどうしたいかだろ」
呟いて、梅子を見る。
怒るより前にそうか、と思ってしまったのだから、仕方がなかった。
結局梅子は幼馴染でしかなく、それ以前に旧家の召使いという身分だった。
本家で鳥籠の中にいたカナリヤのように、ただ主人達の生活を楽にするよう毎日を鳴きつづける。
それでも自ら選ぶのならば誇りを持てる籠の中が、必要とされる場所が良い。
つまりそういうことになる。
――何でも分かっているというのはつまらないものだ。
「もう決めてるって顔してんじゃねえか」
「はい。報告だけしたかったので」
そういうことだった。