(六)
(君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ)
「お見合いでもしてもらおうか。うん」
兄がどさりと写真を抱えて持ってきて、目の前に置いたので孝二郎は顰め面をした。
発掘してきた伝統邦楽のテープを止めてイヤホンを外す。
……珍しく仕事を休み家に居ると思ったら起伏のない顔でこんなことを企んでいたのか。
縁側から見える景色は枯れ枝と寒さに寂しく、雪は数週ぶりにまたうっすら土を覆いつつある。正月を越えてひと段落した屋敷は反動のせいか静かでお茶を飲むのにちょうど良かった。
切りにいったばかりの髪の生え際を掻き、湯呑を取り上げ孝二郎は飲む。
隣の兄はまったりした例の声色にやや呆れた風を混ぜて孝二郎を咎めた。
「いい加減にしなさい。そうやって、いつまでも不安定な身分でいるつもりもないのだろ?」
「……んー」
どうにもこの兄には本音が言いづらい。
昔ほど嫌っているわけではないが今でも確実に苦手だ。
宗一が庭を眺める弟に軽く肩を落とす。
「嫌だというならせめて紹介なりともしてあげるから仕事には就いてもらうよ。みっともなくて弟が居るとは言いづらいこの立場、理解してほしいものだね」
「分かってるって、うるせえな」
「いや分かっていないとも。おまえも責任を持つ立場になれば分かる」
ぱたぱたと掃除をする女中や、庭の雪を払う僕達の微かな響き。
寒さはまだ暫らく続く。
旦那兄弟の邪魔をする者はなく、薄曇りの空は太陽の場所だけほんのりと明るかった。
孝二郎は溜息をつき、湯呑を回して兄を見る。
「あぁでも見合いはしねえよ。迷惑かけるけど仕事も自分で探す」
「――ふうん。孝二郎らしい」
降ってきた声は今度は背中の方からで兄ほど呆れてもいなかった。
とんとんと軽さが響き影がくる。
後ろから中年の女中が一人付き添って荷物を抱えていた。
宗一が先に立ち上がって手を取った。
「叔母さん。言ってくれたら迎えに行ったのにな。身体はどうですか」
「久し振り宗一君。相変わらず腹黒いんだか白いんだか分からない平坦な顔だねー」
肩上に切り揃えた髪を揺らし手を軽く握って、春海が淡く笑う。
数年前に大病をしてからあまり彼女は動き回らなくなりただ家と大学院で研究だけを続けているらしかった。
そのせいだろうか不健康に細い。
相変わらず歯に衣着せないところはそのままであったけれど。
「うん。琴子とせーちゃんと梅ちゃんが来てるって聞いたからね、遅くなったけれど年始の挨拶」
「では孝二郎に案内させますよ。ほら、おまえもお茶ばかり飲んでないで偶には役に立ちなさい」
孝二郎は黙って立った。
女中に客間を案内するため宗一が先にさっさと行ってしまう。
昔はそれほど下ではなかった背がひどくちっぽけに感じられ、まだ三十そこそこだというのに叔母が遠く見えたことにふと時を感じた。
「うん。変わらないね、ここは」
宗一の立ち去った縁側で春海がガラスに手を当てる。
孝二郎は横顔を眺めて、やっぱり琴子に似ているな、と当然のことを感じた。
「そうでもねえよ」
変わったものは多くあり、大事と気付いたものはもう放す気もなく、ただ逃げたかっただけの頃と今の心持は確かに違う。
ちっぽけな人が変わるものなら屋敷だって多少は変わっているだろう。
春海はすうと深呼吸をした。
後ろで手を組みぼんやりと庭を眺める。
「最近、目が霞むの。大したことないけど。参ったな」
「……へえ」
「見えなくなる前に見なくちゃ」
「……ったく。春海さんらしくない、そういうこというなよ」
苛立った声音に春海は目を閉じて笑った。
化粧で隠してはいても目元に小じわが見えていた。
「勿論死ぬ気とかないしなんとかやっていくつもり。孝二郎は優しくなったね」
「何言ってんだ」
憮然とし湯呑を拾い、羽織っていた半纏を肩に掛けてやる。
「ああ、せーちゃん、琴子。久し振りー相変わらず!」
たらたらと客間へ歩いて遠慮ない挨拶を交わす春海を横目に、腰を浮かせた女中と視線をちらと合わせて孝二郎はなんとなくあの体温に今触れて抱きしめていたいと思った。
失うことに初めて怯えた一晩を、思い出さずには居られない。
粉雪がちらほらと舞っている。
兄に言われなくとも梅子の傍にいたい以上、身の振り方を考えるのは日々の目的だ。
――習慣できちんと朝には目が覚める。
睡眠不足でもそうなのは便利なのか恨めしいのか、と布団に白い息をはいた。
身体を抱くと昨晩にもされた名残がほんの微かに熱かった。いつもは相変わらずやる気がなく喧嘩ばかりするのにどうして夜だけは優しいのだろう。
冬晴れの朝日が薄くて目に白い。
「……何を顔を赤くしているのかしら。怪しいわ」
隣で眠そうに琴子さまが呟いた。
雪が解け始め少しずつ季節は春を迎える。
惚けた顔のままもぞもぞ脱いだ寝間着を梅子に押し付けて、お嬢さまははしたなくあくびをした。
「あぁ、寒いわ……」
「風邪引きますよ。はい、こちらでしたよね」
「ありがと」
おまえも夜歩きは程々になさいと涼しい顔で言って肩にかかった紐を直す。
薄物を渡したままの姿勢で少し固まり、梅子はやっぱり琴子さまは騙せないなあと嘆息した。
でも最近琴子さまの絡みがしつこくなってきていろいろと危機を感じるのでどうにか解決したい。
さり気なく触れてくる手を受け流しつつ梅子は暖房の電源を入れた。
……この七年に甘やかしすぎてしまったのだろうかと反省しつつも、結局甘えられるのに弱いのだから梅子自身にも責はある。
どうかこうか今朝も追求をかわしながら、軽く口喧嘩などもしてついでなので日ごろの説教を繰り返して、運ばれてきた朝ごはんを手を合わせてから一緒に食べた。
あまり通常の業務もおろそかに出来ないとかで最近は清助さまが九州に居ることが多いから、琴子さまも寂しいのだろう。
構ってくるのはそれでかもしれない。
食器を下げるのも本家任せにはできないので重ねたものを持って縁側に出た。
午前中は涼しくて心地が良い。
昔はよくぱたぱたとこの客間周辺で駆けずり回ってかくれんぼもして、時々罰として雑巾がけもさせられた。
庭で、その彼が散歩をしているのと目が合って、穏やかに頭を下げて挨拶をした。
坊ちゃまは愛しげな眼をしてから恥ずかしかったのか渋面を作って多少挙動不審になっていた。
椿が綺麗に咲いている。
梅子は緩んでしまう頬を抑えられずに足元を見たまま厨房に向かった。
籠の中で鳥が鳴く。
そんな日々を過ごすのはあっというまで、梅の花が庭にも咲いた。