黒豆と女主人
おせちの黒豆煮が余ってしまったので炊事場でつついていると、お嬢様、もとい奥様が顔を出した。
主人夫婦は実家への遠出から今朝がた帰ってきたばかりだ。
梅子は留守を預かっていたので正月三日になっての初顔合わせだった。
鮮やかな緋色に佇む鶴と、なんとも目出度い訪問着姿で顔色も良い。
先ほどまで疲れたわ疲れたわ、と旦那様に寄りかかっていたのであまりお話もできなかったのだけれど、ようやく復活の体らしい。
器を置いて腰を浮かす。
足の痛みから来る、やや平衡を欠いた立ち上がり方にもだいぶ慣れた。
「梅子。お片づけは後で構わないわ」
「え、あ、はい。何か御用ですか」
「一緒に初詣に行きましょう。あなたまだだったでしょう。わたくしの振袖を着るといいわ。特別に貸してあげる」
目を輝かせて笑む琴子様は、これぞ最高のお年玉!喜んでもいいのよ!という心の声が顔じゅうに書いてあり、女中は苦笑しつつも断り方に迷った。
「ええと……お気持ちはありがたいのですが、その、」
「何よ」
「申し訳ないのですけれど、琴子様のお振袖ですと、その、サイズが――」
「なんですって!?」
江戸紫のリボンを翻し、彼女の主人は髪をなびかせて梅子に掴みかかった。
梅子の眼鏡越しに怒りに染まる赤い顔は、新しい年を迎えても実に素直に主人の感情を伝えてくれる。
可愛らしいとは思うのだが、迷惑をこうむるのはいつだって梅子自身なので彼女としてはもう少しお嬢様に落ち着きを持ってほしい。
今も和服の帯留めを掴まれてやや下方から袖を引かれて逆らえない。
「あ、あの琴子様」
「胸なんて帯の巻き方でどうにでもなるわよ失礼ねっ! ……いいわよ、お前には今年こそ口のきき方を身体に教えてあげるわ」
「いえ、ですからあの、ちょっ……ん。…っ、だからお台所でやめてください、あ、あと…サイズって言ったのは身長で、すから…っ!」
身をかわしてどうかこうか黒豆の皿と箸を持ち上げて逃げる。
「ちょっと! 私とその黒豆とどっちが大切なの!?」
「………」
何言ってるんですか。
一瞬呆れて立ちどまり、我知らず微笑む。
――困ることも多々あるけれど、琴子様は今年も正月から元気で、それが梅子にとって何よりの幸せでもあるのだった。
「ちょっと、こら待ちなさい!」
まあそれはそれとして、今は三十六計逃げるにしかず、なのだけれども。