(幕間)
暇をもらって新しい勤め口で今日も目覚めた。
朝日の方向に未だ新鮮さが抜けない。
孝二郎の声を聞かずに幾日過ごしてきただろう。
金糸雀色に芥子の帯。髪をまとめて仕事にかかる。
同室で年齢の一番近いあざみについて仕事を始めて数週、景色の歪む古硝子の引き戸にもようやく慣れてきた。
「琴子お嬢さまは気まぐれなんだ。ていっても清助さん次第のご機嫌でいらっしゃるから、分かりやすいって言えば分かりやすいのかな」
「清助さん?」
「お嬢様のいいひと。幼馴染らしいよ。あたしも住み込み始めたの最近だから、よく知らないんだけど」
通いの庭師と婚約済みのあざみは二十歳、ひどくさばさばしていて孝二郎付きの上流学校で十年近く過ごした梅子が初めて出会うタイプであった。
旦那さまは孝二郎への口止めを梅子が思わぬほどあっさりと引き受けてくれて、梅子の亡き両親に代わる保護者達にも丁寧に説明と対応をしてくれた。
そうして春海と琴子の住むだいぶ北に行ったところのお屋敷に、働き口を世話してくれた。
ひどく親切だったものだから感謝半分、猜疑心半分というかたちである。
梅子はそういう自分を可愛くないと確かに思う。それだけ孝二郎の傍を離れることを本家に喜ばれてしまったのか、なんてことを未練がましく邪推している自分には、まだまだ幼い恋心が残っているのだろうか。
諦めたのになと梅子は心中呟く。
正直、どうでもいいと思う。だってあれだけ言われて、それでも孝二郎は梅子が自分を好きでいると信じていて、あの傲慢さといったら百年の恋だって一瞬で蒸発して積乱雲に溶け込んでしまうのだ。
雨が降ったらそれでお仕舞い、後は何にも残らない。
帯の上で指を絡める。
知らず溜息が漏れた。まだ考えている時点で、負けなのかもしれないけれど。
「梅子ちゃん」
「はい」
呼ばれてあざみの高い身長に首を向ける。
「あたしは春海お嬢さまのお部屋やっておくから、玄関まわり掃いてきて」
「塀の外も掃きます」
あざみはエライエライ、と朗らかに傍の部屋へ消えた。
春海は孝二郎の叔母だ。
彼女は既にかけだしの学者として分譲マンションに住んでいるが、時折戻ってぐうたらする。実家ほど窮屈ではないこの屋敷は、格好のくつろぎ場所らしい。
世間知らずの変わり者という言葉がぴったりで、いくら連絡無しに帰っても、部屋には塵ひとつないことがあたりまえであるとお金持らしく信じ込んでいる。そうでないとわざとらしく実験を始めて廊下を異臭でいっぱいにする。後処理が大変なのでやめて欲しい。
その姉の琴子は機嫌が悪くなると清助氏(恋人らしい)に八つ当たりして琴のバチを振り回し部屋を壊す。修理代もばかにならないのでやめて欲しい。
……困った双子だ。
というより、孝二郎のことしか見えていなかった時分は気付かなかったのだが、この「家」は本家を初め親戚一同どれもこれも困った人間ばかりであるような気がしてきた。
幼い頃の慣れは怖ろしい。
箒を往復させながら、梅子は初夏の空を仰いだ。
孝二郎は幼い頃、機嫌が悪いと籠もっていたから、春海タイプなのだろう。
乾燥した風が吹く。
裏手の山は夏を間近に青く茂っていた。
結婚してしまえばよかった。
空の青さに睫毛を揺らして、梅子は遠い主人を思った。
もう朝の時間にあの生意気でやる気のない表情を起こすことがない。
それに魅力を感じなくなってしまった。
だったら本当に。
なにもかもが、どうでもいいのだ。