(四)
流石に夕食は呼びに行かねばならなかったので意を決して襖を開いた。
軽く頬を火照らせて部屋隅の鉄琴に寄りかかっているお嬢さまの傍で、しばしば訪れるお客さま、というか彼女の幼馴染らしい男性が、知らぬ顔で薄着で寝ていた。
お嬢さまの格好に視線が合わせられず、梅子は少し迷った。
「何? 夕食?」
「あ、あの、風紀が乱れていると思います」
迷ったけれど袖を少し上げて琴子お嬢さまに抗議したら鉄琴のバチが飛んできて障子を突き破った。
楽器の道具を粗末に扱うのは非常にどうなのかと思うのだが、思うより先に手が出るのはこのお嬢さまのいかんともしがたい特徴だ。
「へぇ。へえぇ。新人の癖に」
乱れたなりに服装をつくろい、腰をゆるりと上げて立つと頭ひとつ下の目線で梅子を睨んだ。
春海と同じ顔ではあるのに、表情が別人だ。
髪を後ろでハーフアップに結わえ、はだけた着物を江戸紫のリボンでしめている。
「梅子」
はい、と答えようとするのを聞いてもいないのかあっさり彼女は言葉を続けた。
「生意気な子ね。孝二郎のオチビのとこで何度か見たけど、今のあなたの雇い人わたくしよ。お分かり? ここは本家じゃないんだからあんたは教育係を兼ねたりしないの。仕事が違うのよ頭に叩き込みなさい。だいいち風紀が乱れてるってなんの証拠があるのかしらー。最近の子は想像力豊かで困っちゃうわねぇ」
揶揄するように口の片端を上げては睫毛を伏せ、長い髪を指に通す。
その様が妙に色っぽいのと、微妙に言葉の返し方が分からず梅子は眉根を上向きに寄せた。
そう言われると自分が勝手に思い込んでいただけで、先程電話の取次ぎ(未遂)時に聞いた微かな甘い湿り気は、ただ自分の気のせいだったかもしれないというのだろうか。……だがしかしそれはそれで恥ずかしいというか、まるで自身がみだらなことにばかり興味があるみたいで不本意というか。というかいくら思い返しても明らかに真っ最中だったので少し理不尽だなあというか。……それにノックをしたらいいわよと言ったのにお洋服を着てくれていなかったのはやっぱり風紀が乱れて云々。
ぐるぐると考えていると琴子は斜目になり、腰に手を当てた。
「で? その生意気な女中さんは何の御用かしら」
「ああ、はい。申し訳ありません。そろそろ御夕食です」
「あ、そう。清助、起きなさい。ごはんよ」
二十過ぎというのに子供のような興味のなくしかたをして、琴子お嬢さまはあっさりと踵を返していつものお客さまの近くへ戻った。
梅子もしかたなく部屋の前から離れて食堂へと廊下を曲がっていく。
食堂に戻ると神出鬼没のもう一人のお嬢さまがいた。
夕暮れの庭に向かう縁側、いつ帰省したのかあたりまえのように座っている。
よくあることなので数週間働くうちにすっかり慣れてしまった。
険しい顔なのは用意されているのが二人分だけなので気分を害しているらしい。連絡せずに声もかけずに縁側から入ってくるからそういうことになるのだが、春海に言わせれば門をくぐった時点で気付くべきなのだという。そういうことは、人手を増やしてからにしていただきたいのよとあざみが以前ぼやいていた。
「梅子。私の分の夕食は?」
「今お作りします。申し訳ありません」
謝罪に気持ちがこもっていないのが伝わったのだろう。
厨房に消えかけた女中の背中に、それで春海は意地悪な言葉を掛けた。
「孝二郎の彼女見ちゃった。今日」
開け放した縁側から、初夏の夕暮れに蜩が聞こえる。
風はあまりにも弱く温く、髪の先すらそよがせない。
梅子は肩越しに柔らかく振り返って微笑った。
話に聞いていた通りとにかくお嬢さまたちは我侭で。
だけれどまあ、あの坊ちゃまに生まれたときから振り回されていた分、それは意外と苦痛でない。
――ええ、こちらは結構楽しんでいます。
だから手紙を書くこともできた。
人間は慣れる。
いつもともにいた存在の大切さにも。
いつもともにいた存在がいないことにさえも。
「綺麗な人ですか?」
「あっ。と。可愛い系かな」
失言と思ったのか口ごもった春海が珍しく、梅子はくすくすと笑った。
大旦那さまの妹君として本家で見ていた春海さまは、淡々として周囲を気にしないという印象が強かったのだけれど。
実は思いの他近しい人に優しいのだと、この屋敷に来て初めて知った。
夜の香りを含んだ風がどこからか届き、夕焼けの庭を騒がせる。
「……ええとね。そう。胸が大きくて可愛い。だからちょっとむっとしたわ。酷いと思うの。胸が大きいとえらいのかしら。ええ偉いのかもしれないでもあの子より梅子の方が大きいと思うわ。そして私のほうが梅子より偉いからやっぱり最後は私の勝ち」
庭を凝視しながら早口で相変わらず変なことを言いまくる春海に、梅子は眼を細めた。
分かりにくい励まし方は、誰かさんを髣髴とさせて胸の奥を微かに焦がす。
「お食事、もう少しだけお待ちくださいね」
もう季節がひとつ移っていきそうだ。
あんなにも長いことすごした場所だったけれど、たった数ヶ月でも、あの屋敷は日々彼女から遠ざかっていく。
手紙なんて捨てられてしまうかもしれないけれど、忘れられなくとも諦めた幼馴染の面影を、もう少しだけ覚えていようと彼女は思う。
金糸雀色の女中服は、厨房の料理係に話をしにのれんの奥へと背中を消した。
お嬢さまの突然の来訪に料理人が慌てだす。
座敷では双子の姉妹がなにやら話して賑やかだった。
本家よりもずっと人手の少ないここは、お嬢さま達との距離が近くて叱られることも多いけれどとてもやりがいがあった。ここで働くのが楽しいのです。と深く感謝を伝えたかったけれど、お嬢さまたちは騒がしすぎて改まっている暇もない。琴子には生意気だと叱られて春海にはからかわれて、古い屋敷は掃除をしてもし足りない。
せめて仕事で感謝を伝えようと思うようになった頃、山は青く庭の花々は鮮やかになって蝉が毎日雨のように鳴いた。
会話は他愛無く積み重なり、日々はこうして過ぎるだろう。
日が沈んで朝が来て、いつか手紙ではなく顔を合わせて祝福できるようにもなるでしょう。
夏は願ううちに盛りを迎えて、夕べは蜩が降るようになっていた。
庭に水撒きに出たら東の木陰から囁き合いが聞こえてまた梅子は顔を赤くした。
最近気まずさが日に日に増してきた。
一旦知ってしまえば、それはもう気付いてしまうのだ。
屋敷にある写真立ての幼い三人組とか、学生頃になってそれが二人と一人のものに分かれていくのとか、短く切った髪とリボンで結んだ髪とまっすぐな髪が、誰と誰と、誰なのかとか。春海がやってくるたび清助をせーちゃん、と呼んで馬鹿にしている言葉の端とかそういうものも、変に気になってしまう。
そういう些細な日常から生々しさが感じられてしまうと余計に敏感になってしまうのだ。
「ん、ゃだ、ね、もう……」
「………げて、ほら…、」
例のお客さまは琴子さまと、また、甘い状況になっているらしい。
蜩に混じれて微かな嬌声が届いた。
葉が規則的に震えては数枚落ちて、息が詰まってしまう。
足元が変に疼いて手が甘く痺れる。熱いのは顔だけではなかったが自覚はしていなかった。
首を小さく振って耳を塞いで聞こえない場所まで離れる。
――今日こそいい加減にしてくださいとお嬢さまに怒る。バチを投げられても硝子割られてもやけになって襲われかけようとそのようなことはお部屋でしてくださいと怒る。なんで老僕の坂木さんは切なげに黙認しているのだろうか甘すぎる甘すぎます諦めたら試合終了です。
決意を新たにしながら西側の小庭でふらふらと壁に寄りかかった。
うつろに身体を抱いてそれすら微弱な刺激だったので息を震わす。
どうしてもこれにはまだ慣れないので、来週あざみ先輩が夏期休暇から帰ってくるのが待ち遠しい。
台風が近付いているそうだから、飛行機が飛べるかどうかは未知数だけれど。