(三)
鼻をつく異臭に胸が悪い。
寒気が肌を内側から灼いて水が飲みたかった。
どこにも力が入らない。
――鉄とアンモニアと泥水の混じった悪臭に息を潜め、それでも生きている事を有難く思わされた。
動けない場所で気を失うことはひどいものだ、現実的にはなんともいえずみじめだ。
こんなに痛いのにまだ生きていること自体が幻覚のようだけれども。
何処かで水がぴとぴとと落ちていた。
弱く差し込む眩しさに目を瞑る。
まあ、仕方のないことだった。
無意識の毎日だったから自身が女中であることに誇りのようなものを持っていたなんて、知らなかったけれど、お嬢さまがなんとわめこうと上をどかずに抱きしめて守ってしまったのはきっとそういうことだったろう。
……成功したようで何よりだ。
いっぱい泣かせてしまったけれど。
痛む筈の両腕には既に感覚がなく、それはあまりいい兆候でないように思った。
口の中が鉄くさい。
溜息を漏らせば張りついた髪が唇で震えてお嬢さまの顔がほうと上がった。
「あぁ、起きたの……梅子」
泣き叫んで痛んだのだろうか気だるげな喉も枯れている。
梅子は声がほとんど出ないことに気付いた。
だから表情で答えた。
腕の中が苛立たしげにもがいた。
お嬢さまが次第に啜り泣き怒り出すのを眼鏡を失くした視界で眺める。
流れる朝の空気は冷えて傷に沁みた。
ぼやけているせいか目の前の彼女はその甥に仕草までもが似て見えた。
億劫なのをどうにか抑えて肘を緩々とずらし、琴子を覗く。
風邪のせいなのかどうしても風みたいな囁きしか出ない。
仕方ないので代わりに力づけるよう微笑ってみた。
似ているとかそういうことは、本当は問題ではなかった。
なかったけれど、でも確かにこの面影をとても好きだった頃があって(まあ泣かされていたのはいつも自分であったけれども)、ならこんな風に弱っている人の傍にいたら自分はいつも笑っていなければならない。
……つまりこれが梅子にやっとできるたったひとつの恩返しだと彼女は知っていた。
この人に似た薄い眉をしかめては拗ねていた少年の存在は、一人きりにされて寂しく母の影を追う間もなく梅子の毎日を賑やかに彩り泣かされたり叱ったり笑ったり、忙しい日々に変えてしまったのだから。
どんなに孝二郎が梅子を口煩い家族としか思っていなかったとしても、
彼女にとっては孝二郎を取り巻く場所が暖かなもののすべてだったことに変わりない。
どんなに恋に似ているだけのものだったとしてもそうだった。
勿論ここのお嬢さま達をしかたなく見守っていた数ヶ月だって、とても楽しく大事だったのだけれど。
前触れなく訪れた感触の艶かしさに息が震えた。
二の腕に押し付けられた唇が着物の上から雨で湿った水を吸い、次に当たり前のように唇をふさがれた。そうしたまま、琴子は腕を伸ばして年下の相手をこの状況にしてはやや強引に掻き抱いた。
痛みが背中に腕に走って泣きたくて枯れた喉から呻く。水がそれでも恋しくて、送り込まれる生温かく泥臭いのを一滴二滴、なんとか飲み下す。
からり、と落ちかかる砂が梅子の髪に触れるのを琴子が眺めて、より強く腕を絡めてきた。
力強いそれは彼女が確かに無事である証拠で梅子はほうっと息をつく。
痛いけれど抗議できる力が残っていないだけだ。
琴子お嬢さまがようやく少しだけ笑んで両手のひらで血に濡れた頬を挟んだ。
「いいからおまえは助けが来る迄休んでいなさい。孝二郎ごときオチビに泣かされていた癖に無理をするものではないわ、馬鹿ね」
遅れてようやく届いた懐かしい名前が意識に溶けていけば、初めて少年にしてみたくちづけのことを思い起こして名を呟いて懐かしさにも笑った。
やっぱりあの坊ちゃまの思い出はおかしなくらいにあたたかい。
そうしたらなぜかお嬢さまが気を悪くして梅子の頬をぎゅむとつねった。
容赦がなさすぎて痛かった。
(休ませる気は全くないのではないだろうか、と言いたかったけれど残念ながら声が出ない)
まあでも、生きているなあとそういうわけで梅子は実感して、瓦礫の高みに目を細め、台風一過の明け方であることを知る。
時間がどれだけ過ぎて行くかが分からない。
薄れる度に夢の中で歌が聞こえて目を醒ました。
気がつけばずうっと遠くでざわついているのは人の声だった。
喉の奥で濁り水と先程の震えが、微かな熱さで薄れそうな意識を引いている。
琴子はあれだけ騒いでいたくせにいつの間にか完璧に落ち着いていて、瓦礫の中で身体をずらし、濡れた梅子の髪を撫でるくらいの余裕があった。
耳元で囁きが届いた。
「ああ、清助が来ているの聴こえるわね。時間の問題だわ安心なさい。今まで一度だって、清助がわたくしを見つけられないことはなかったもの」
梅子は僅かに重いまぶたを持ち上げた。
お嬢さまと彼女の幼馴染らしき客人が、今後はあちこちでいやらしいことをしていても三回に一回は見逃してあげようとこっそりと思った。
頬に水が落ちた。
喉の下が熱い。
次に目を開いたとき白いシーツに天井がぼやけて知らない場所で点滴を受けていた。
熱い頭がじんじんと重い。
掠れた視界で何かが動き、隣にいた数ヶ月ぶりの懐かしい顔と目が合った。
そうしてから互いに眼を逸らした。
少しの沈黙の後に震えた溜息が小さくて知らない人のようだと思った。
孝二郎は薄汚れた服を纏って見たことのない顔つきをしていた。
誰かが動いて電子メロディが鳴る。
朦朧と見つめる梅子の視界がはっきりとしてくる前に、誰かと入れ替わりに幼馴染の坊ちゃまはどこかへ行ってしまった。
白い服の人たちが動いている。
夢なのだろうと思って梅子はぼやけた意識をとろとろと沈めて瞼を閉じた。