(二)
夕から小雨が降り出した。
洗い済みの着替えを持ってくるのは昔から梅子の役だ。流石に数年経てば思春期中でも恥ずかしさなど消えて、堂々と抱えて廊下を歩けるようになってくる。
「坊ちゃま。着替えです。開けますよ」
一応跪いて着物を置き、ふすまだけは丁寧に開ける。ついていた両膝を裾を乱さず浮かせて立ち上がり、抱えなおした着物を室内の定位置へ。
ごそりと音がする。
幼い頃から馴染みの主人が、背中に本を隠している。別にそういう雑誌でもあるまいになぜ隠すのかさっぱり分からない。
さらにあろうことか、あからさまに顔を逸らして舌打ちをされた。思わずむっと眼鏡の奥で眉をしかめる。
――相変わらずやる気がないくせに気分屋なのだから。
結い上げた髪からこぼれる後れ毛に、指先を遊ばせて彼女は心中ひとりごちる。
昔からこの偉そうなお坊ちゃまはそうだったのだ。気分が悪いと八つ当たりばかりで、自分も本当に可愛くなく言い返して手まで出るものだから、喧嘩はいつもこじれにこじれた。
だのに機嫌が直れば、裏の倉庫探検なんかに自分を無理矢理誘いに来るのはいつだって『坊ちゃま』で。
雀百まで踊り忘れずというくらいなのだから、この短所が治るだなんて想像もしていないけれど、好きこそ物の上手なれというくらいなのだから、それにいちいち自分がつっかかりたくなる衝動は努力次第で抑えられるはずだ(使い方がちょっと違う気もするが)。
「梅」
黄ばんだ白秋を放り投げたままで、孝二郎はあっさり去ろうとする梅子の尻を睨んだ。
「はい?」と肩だけで振り返る仕草はおそらくそのあたりの十六歳とは全く違うのだろうし、不細工だとはいくら孝二郎でも言えない風情がある。下働きの小娘だからと見合いが断わられることは、まあそうないだろう。結果は知らんがきっといい縁にでもめぐり合ってさっさとこいつは俺のことなど忘れるだろう。
世話なんて他のやつに任せてしまったって構わない。
「……あのよ。宗一に聞いたか」
「何をですか」
梅子がいつの間にかすっかり流暢になった敬語で答える。
孝二郎は指先で畳を掻いた。指の腹が汚れるような錯覚を覚えた。
「あのな」
「宗一さまの頼みでも宿題は教えませんけど」
梅子が身体ごとこちらに向き直るのを見上げて口をゆがめる。
「……は。そういう風にな。おまえがいつまでも俺にくっついてられると、家としては困るんだってよ」
流石に今の言い方はなかったろうと、気付く間もなく、空気が変わった。
梅子は表情を消して彼を見下ろしていた。
ああ。
ああ、泣くな、と。
もう何年もそんな顔は見ていなかったくせに孝二郎は思った。それでも彼の幼馴染は、泣かずに無表情のままでいた。
夜半の薄雨が、障子越しに湿りを伝える。
「梅」
「はい」
硬い声でそれでも、幼馴染の少女が泣かないので少年は写真の山の押し込まれた押入れへ目を逸らした。
――泣け。
「それくらいは分かってるよな」
「……はい」
それでも梅子は泣かなかった。
ただ表情だけが薄く薄くなった。
「見合いしろってよ。写真がきてる。近いうちに見せてやる」
――でもおまえは梅子ちゃんのことが好きではない。
ああ好きじゃねえよ。
恋愛なんてものは結局非日常なものでおまえだってそろそろそれに気付くべきだろう。
「話はそれだけだ」
梅子が頷いたかどうかは分からず、ふすまがいつ閉まったのかも分からなかった。
かすん、という乾いた音で、顔を上げれば、いつも自分を嬉しそうに眺めている幼馴染のうっとうしい女中は、もう部屋の中にはいなかった。
ひとときだけ、雨音が孝二郎の耳を攫った。