目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
【WEB拍手おまけログ】
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第四章  『黄色い月』

(一)

「昔、よく泣かされてたわよね」
「そうですか?」
「オチビのどこがよかったのよ」
「分かりません。あと孝二郎さまの話題は止めてください」
きっぱりと笑った女中とお嬢さまの片割れは、日暮れ時にはそんな風に平和だった。お嬢さまにせがまれて梅子が家事を休んで何曲か唄ったりもした。

北海道はその頃雨がぱらついていた。


すぐ近くの港からは重い海に小雨が波紋を作っていた。
夕暮れ前に函館に降りた三人組は年上を先頭に、まずは駅近くの百貨店へ向かった。染井が泊まる用意をするのだとごねたためである。
孝二郎としては放置したいこと甚だしかったのだが、お節介のお人好しが 「あんな危なっかしい嬢ちゃんを放っておけん」 とついて行くものだから渋々付き合わされた。
――宿を提供してくれる相手に逆らうのもまずいのだから仕方がない。
馴染みのないデパ地下なる場所で夕飯の材料を買って待ち合わせ場所へ戻ると、染井が紙袋を提げて制服の上に薄手のコートを羽織っていた。
灰色にけぶる街並みは薄い湿闇に覆われて街灯にも明かりがともりつつあった。
すっかり日が暮れている。
函館駅に戻り缶コーヒーを飲みながら休憩してみると、ビジネスホテル(孝二郎にも染井にも客としては未知の建物だった)が目移りするほどあった。
湿った風が足元を冷やす。そのたび潮の匂いがした。
物珍しげに見渡している高校生二人を横目に、健雄が電話と手帳を開く。物慣れた様子で、ホテルの宿泊人数変更と、――もう一部屋、禁煙のシングル部屋まで当たり前のように予約したものだから染井が振り返った。
携帯を閉じて少女の顔を見た健雄は、素知らぬ顔で観光案内所を指差して
「御不満ならあっちに宿泊案内あるから行ってきてみ。大学生だって言えば何とかなんだろ」
と言うとさっさと目当てのホテルへ歩き出した。
染井が何か言いかけて口を開けず、頬を膨らませてううと黙る。家の許可も出ず、泊まる先には困っていたのだろう。
立ちどまって悩んでいる様子だったが、結局、お礼だか文句だかよく分からない言葉をもごもご呟きながら男二人を睨みつけ、ポニーテールをなびかせてぱたぱたと着いてきた。
クレーンを横目に港を歩く。
初めて踏み入った古いホテルは煙草がしつこく染みていた。

冷め切ったハンバーガーをフロントの電子レンジで温め直し(珍しがる二人を健雄が珍しがった)、先ほど買い込んだおかずと合わせて適当な夕食を取る。
染井はお腹が満たされて気が抜けたらしく、勝手にツインベッドのひとつを占領して疲れたのか眠ってしまった。
自分が使う予定のベッドだったので横にもなれず、孝二郎はただ脇で腰掛けて窓を眺めた。
軽く息をつく。ポニーテールを指先で撫ぜれば焦茶の髪が僅かにだけ冷房で揺れた。
小雨が降り出し、しんとしたホテルに打ち響いて旅先の地という実感をわかせる。
夜景がよく見えた。
カーテン越しにちかちかと雨に煙れた光が遠い。
同じく疲れでうとうとし始めた孝二郎の耳に、擦るような音が聞こえた。
デスクの傍で健雄が少しだけ頬を綻ばせた。
「動くなよ。描いてっから」
「画家なのか? 健さんは」
「描かなきゃ生きていけないだけだ。おかげで定職にもつけねえから参るわな」
どう見ても参ったような顔はしていなかった。口の端は緩み、紙を擦る筆記具の流れは気負わず穏やかで無駄がない。
個展の案内はがきを貰った。売るとか売らないとかそういうことは考えていないらしい。そこがプロではないのだと本人は言うが、違いについては分からない。
スケッチブックに黒い芯を滑らせる男を眺めてから、孝二郎は指に触れていた染井の髪をもう少しだけ弄った。
制服から脚が伸びている。さっさとシングル部屋に帰してやらないと後で何を言われるか分からないが、描いているのならもう少し待とう。
男は静かに絵を描いていた。
ぱらぱらと打つ雨に、すぎる時間がなんとなしに退屈で、隣から渋々の了承を得て小さなテレビのスイッチを入れた。
五分ほどしてお笑い番組がつまらないのでチャンネルを変える。
ニュースが流れていた。

見覚えある駅前で台風情報のレポートが行われていた。

目を僅か見開いて薄暗い部屋の明るい画面に顔を向ける。
髪をがしがしと掻いて鉛筆を回した絵描きが、ん、と孝二郎を向いた。
「どした」
「ああ。ニュースでやってるところに親戚がいんだけど」
「ほう」
好奇の声を無視してボリュームを上げる。
豪雨がレインコート姿のリポーターを打ちつけ声を遮り、一旦カメラも黒くざらついた。
画面後ろで樹が倒れるほどたわんでいる。
孝二郎はベッドから降りてリュックを漁った。
軋んだベッドに染井がむずかって喉をこくりと鳴らした。
「ん……」
「親戚さんち、大丈夫そうなん?」
「電話してみる」
春海達の屋敷が近くにあったことを憶えていた。あれでも一応、可愛がってくれている叔母達だから気にならないこともない。
おそらく杞憂だろうと無造作にメニューから番号を漁る。
あんな雨では電波が届くかどうかがまず謎だ。
もたれた窓の横に伝う水滴と、ブラウン管の暴風雨が、同じ雨とは思えない。
電話を頬辺りに持ち上げ期待もせずに使用人の誰かが出るのを気もなく待つ。
耳元で呼び出し音が四回続いた。
ガチと受話器が取られて、息を吸う程度の沈黙が続き、そして応答がなされた。

『――はい、もしもし』

目を見開く次の瞬間、何か鈍い轟音が響いたかそうでないかのうちに、叩きつけられるように一方的に切られた。
指圧で携帯が軋んだ。

もう一度かける。
誰も出る様子がなかった。
長い沈黙に耐え切れずに一旦通話ボタンを切る。

息が荒くなっているのにも気付かず崩れ落ちて携帯を見つめた。
心臓がただうるさく、頭が沸騰する。
もう一度かけたが今度は通話中のサインだけが耳を無情に通り過ぎていく。
「……は、何で」
「おい、孝二郎? どした」
呼ばれて反射的に顔をあげる。
ノイズの激しい映像が視界の端に強制的に映った。
テレビは慌しく、見覚えある裏山の崩壊を緊急中継で放映していた。
端末が手から滑り落ちた。
口がからからに渇き心臓が視界を一色に染める。
何をしているのか分からなかった。
「……んで、んなとこにいるんだ、梅」

呟いたところで理性がすべて飛んだ。
もう何もなく息が出来ず何も見えず、荷物も持たずに気付くと部屋を飛び出しエレベータのボタンを叩きつけ来ないのに苛立ち非常口の階段を引きあけ雨の中を七階分駆け下りた。
息が辛い。
朝方まで本家の屋敷で何も考えず世話をされていた身が軋んで金属に足が滑る。
ずるりと手を剥く錆は鉄のにおいがしていた。
手が離れ身体を打って五階辺りの踊り場で派手に転倒した。
不思議に痛みが感じられない。
歯を噛み締め膝を立てる前に突然追いかけてきた影に襟を引き上げられた。
低く腹に響く声で何か怒鳴られて息を乱す。
軽い音でまだ階段が鳴っているのが小雨の向こうに微かに聴こえた。
霧が脳からほんの僅か薄れて視界に道連れの姿をようやく映す。
「落ち着けや、おい! いきなりどこに行く気だってんだ」
力で敵わないのが歯痒くて堪らなかった。
他のものに介入される余裕などないのに邪魔ばかりをされる。
「こーちゃん、どうしたの? ねえおじさん、あなたも何したのよ」
不安げな声も頭上からついに降ってきた。
カンカンと濡れた金属音が近付いてくる。
先程打った膝が今頃痛むのに孝二郎は顔を歪めた。
観念したくない。
絞り出した訴えも掠れ声にしかならなかった。
「い……、から、離……、」
「あーあー。だから荷物も金も持たないで一体どこに行く気でいるんだよ。戻れ、一旦」
指が緩んだが離されることはなかった。
雨が夕時よりやや強まっている。
潮のかおりが気のせいのように漂って薄れた。
もう一段、金属がカン、と鳴って染井が踊り場まで着いた。
風に前髪が僅かだけ揺れる。
「こーちゃん、どうしたの」
「帰る」
孝二郎はどこも見ぬままそれだけ言った。
雨が僅かだけ勢いを増し、無骨な指がようやく良い布地から外れた。
軽く咳き込む彼に染井が瞬きする。
「え」

「だから、帰るんだよ、もう」

声が震えていることに寒さは理由ではありえなかった。
熱い頭が不思議と冷静さを増しても息の荒さは変わらぬままだ。
ただ求めるものへ思考ばかりが回転する。
息を整えようとするのに整わない。
向き直り一も二もなく頭を下げた。
「健雄さん。染井。勝手で悪い、今すぐ東京に、最短距離で帰りたい。俺は、っ、」
荒い息で言葉が切れる。
口ばかりが勝手に動いた。
「……未熟ないいところ育ちで何も知らない、地図だってまともに読めない。出来ることなんかない。知らないことは全部信じるから頼りにさせてくれ。お願いします。なんでもする」
まだ何か言える気がするのに思い浮かばずもどかしくて歯噛みする。
勢いで土下座でもできそうだった。
身体が苦しくて涙が出そうだ。
打ち付けた部分がずきずきと痛みだけ血管に戻す。
そんな傷みもどうでもよかった。
沈黙が過ぎる。
染井が足元に視線を落とし、不安げに年上の男を見遣った。
雨空は暗く風は生温かく、夜景のネオンは見たこともない。
孝二郎は目を瞑る。

暖かい記憶ばかりが呼び戻されてかなわない。
叱られた朝や投げられた雑巾や雨の日に抱えられた洗濯物があまり熱く心臓に優しい。

非常階段を鈍い音で再び登った。
なだめるように染井の肩に手を置いて、健雄が先を行った。

風が港側から吹き渡る。

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