第二章 『枇杷の実』
(一)
梅雨入りしたとラジオが盛んに言っていた。
今更、こんな夕暮れの日に馬鹿げている。
最近してもらうようになった送り迎えの車から降りてそんなことを思った。
孝二郎は鞄を肩に引っ掛けて奥の離れを暫し眺める。
『着がえてくるね。あとで遊ぼう』
『お茶を入れてまいりますから』
緩やかな風に水面が波立ち傍の梅ノ木がざわざわと騒いだ。
寂しくは無い。
イヤホンを外し、学生服に押し込んで孝二郎は風の音だけを聴いた。
玄関を上がると出迎えがあり、磨き上げられた廊下を幾度も曲がる。縁側からは庭が見えた。ぼんやりしていて避ける間がなかった。
「おや。おかえり」
兄の宗一ののっぺり声が耳に飛び込んできた。
その後ろから真っ直ぐな黒髪の女性が顔を出してきたので彼は観念して肩を竦めた。
「春海さん、また来たのかよ」
「うわ、来ては悪いというような口ぶり。失礼だよね宗一君、ここは私の家なのに」
「それは違う。うちの親父の家ですよ」
兄は反論を許さぬように手を軽く上げ、おっとりと笑った。
「さっすが宗一君。骨肉の争いものともしない人だね」
「嫌な会話すんなよ……」
叔母が淡々と感想を述べるので、孝二郎は渋面になった。
宗一は相変わらず読めない目つきで、見慣れぬビニール袋を手に提げ、にこにこしている。縁側から斜めに差し込む西日に照らされ、橙色に染まった果実は甘いにおいで揺れていた。春海が察して(宗一の腕ごと無理矢理)袋を持ち上げた。
「そうそう。可愛い甥っ子達にお土産だよ。食べ切れない余り物。枇杷だよ。いい枇杷」
「ああ」
確かにかおりはよく、六月の初夏にほんのりと瑞々しかった。縁側を行き来する女中が僅かに顔を上げて微笑ましい顔をしたのもそのせいだったろう。
「どーしたんだよ、こんなん持ってくるなんて」
「うちの女中がこないだ結婚してね、しばらくお暇いただく手土産って」
「……あ、そ」
一気に無関心な目つきになって二人の横をすいと抜けて奥に行く。……その、「女中」に「結婚」というフレーズは嫌がらせに聞こえた。
孝二郎は梅子が今どうしているのか知らない。
一言も聞いていない。
好奇心旺盛な女中連すらも孝二郎にその話を耳に入れないということは、おそらく「そういうこと」になっていて、限られたものしか知らないのだろう。
黙って去って、何週間経っても戻ってはこない。
別に戻ってきてほしいとまでは思わなかったがどことなくすわりが悪かった。
いつからだろう。
『着替えてくるね』は『身支度を整えてきます』とかそういう遠回しな表現になり。『あとで遊ぼう』は、『夕食になったらお呼びしますから』に変わった。
孝二郎君、と嬉しそうに呼ばずに、坊ちゃまと愛しげに呼ぶようになった。
西日がひどく淡い。
立ち止まる。
あれを。――思っていたよりもずっと、自分は嫌ではなかったらしく。
「孝二郎、今度私のうちに遊びにおいで。面白いものがいっぱいあるよ。と釣ってみたり」
後ろからとたとたと気配と低い位置でのくだらない話が聞こえてもう一度観念した。
「うちってどっちだよ。マンションの方か」
「別に屋敷でもいいけどお薦めしない」
「どっちだ」
表情の読めない春海へどちらにしろ丁重にお断りし、孝二郎は部屋に戻った。
学生服を着替える。左右絡んだイヤホンをほどく。
ラジオは未だにしつこく梅雨入りを報じていた。