目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
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織姫は回りくどい(本編二章頃)

織姫は回りくどい

囁きあう笹の葉を、縁側に飾ると星空が遠かった。
関東郊外の山あいにあるひっそりした屋敷は、夜がとっぷりと深い。
おくれ毛をそよがせる蒸した空気に、梅子はそっと息をつく。
使用人を取り仕切る坂木老の方針で、このお屋敷は季節の装いを丁寧に行う。
住み込みの女中は今のところ梅子しかいないので、ひと息つける夜のうちに、このように細かな手仕事をすることもあるのだ。
蚊取線香の煙たなびく宵草の影に、蛙が跳ねた。
笹飾りを結わえつける。
と、突然に慌ただしい足音がして、障子戸をがらり、すぱん!と引かれた。
小柄な女主人が、百貨店の紙袋を持って鼻息荒く仁王立ちをしている。
「琴子さま」
わざわざ使用人の部屋まで自ら、こんな時刻にどうしたことか。
「御用でしたらお呼びつけください。すぐ参りましたのに」
「呼ぶのも行くのもわたくしの勝手でしょう、生意気ね。だったらおまえ、わたくしがこーんな小さな声で呼んでも、」
踏ん反り返っていた女主人は、そこでじろりと梅子を睨み、すたすたすたっと部屋に入ってきた。
縁側に膝を乗せ、躊躇なく、梅子の肩に手を添え触れる。
ふわりと黒髪が頬をかすめた。
耳元に吐息がかかり、意地悪な甘い声が、そっと鼓膜を震わせる。
夏の夜風に、溶けこむように。
「こんな声でも、ちゃんと気づいてすぐに来るわけ?」
「ひっ!?」
背中を冷たい指でなぞられたような感覚に、女中はばっと首を逸らした。
湯気が出そうな耳を押さえて、ずるずる縁側を後ずさりする。
「で、ですからお嬢さま、そのようなお戯れはおやめくださいと何度も」
「なに逃げてるのよ、別にいいでしょこのくらい。慣れなさいな」
はあ、と溜息をついて、琴子は縁側に膝立ちした姿勢から、清楚な正座に移行した。
「それはそれとして、梅子、今晩おひま?」
「暇ではありませんが、何か御用でしょうか」
「あーあ、ほんと生意気ねおまえ」
再度の溜息をついてまっすぐな黒髪を払い、琴子は梅子を横目で睨んだ。
「まあいいわ。明日、急に清助が時間取れることになったから、午後から泊まりがけで龍川の花火大会に行くの。坂木を連れていくから、留守は残りの者に任せるわね。おまえもそのつもりでいて」
「はい」
「というわけで、花火大会に着ていく浴衣と帯を選ぶわ。今からわたくしの部屋に来て、決まるまで付き合いなさい。着なくなった古い浴衣、おまえにあげるから」
百貨店の紙袋が目の前に突きつけられる。
梅子は眼鏡の奥で目を瞬いた。
「あの」
「なによ。気に食わないの? 言っておきますけどね、おまえには絶対この色が似合――」
琴子が不意に、目を逸らして口を噤んだ。
それだから梅子も、紙袋のてっぺんに領収書がひらりと乗っていたことには触れず、微笑んでお礼だけを伝えた。
天の川が、笹の中州にちらちら流れを遮られては夏の夜風に微笑んでいる。

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