(八)
籍だけ入れて戻ってきた頃に降って来たのは雪ではなく冷たい雨で、二人で小さな屋敷の門を潜った。古いこじんまりした屋敷を買い取り住んでいるのは梅子の主人夫婦で、雨の多く暖かいこの地方にしては今日の冷たい風は湿りも充分で冬を感じることができる。
慣れない土地でいまいち調子に乗らない時分は愚痴が多かったけれど今日は格別なんということもない。いやそれどころか彼にしては珍しく何の気負いもなく彼女の手を取ることができて、梅子にとってもそれは確かな実感をくれて嬉しいのか顔は眩しげだった。
葉を打つ水音に飛び石が黒く濡れていく。
琴子夫婦に借りた離れは本家のお屋敷のそれと比べればひどく小さく申し訳程度だ。
それでも暇を出されるとばかり気にしていた梅子は逆に琴子から「出て行かないのを条件に賛成してあげる」と顔を背けて言われた時、子供みたいに嬉し泣きをし孝二郎そっちのけで抱きついてしまった。
そしたら更になんだか琴子の態度が甘くなった。
……ついでに梅子が少し自分に厳しくなった。
まあそれもいいし、確かに無職と結婚するのはきっちりした梅子でなくとも普通は躊躇するだろう。
雑誌の小さな連載記事は、顔の広い健雄の紹介で貰った仕事だったが次第に板についてきた。
内容は何気ない旅行回想記だ。観光誌用のそれは評判もそこそこで、他にも依頼を貰うようになりなんとか身を立てていけそうだった。
健雄は紹介したきりまともに読んでもくれないが、染井は気に入って時々文句という名の感想をよこしてくる。学生の時ほど三人で集まることはなくなっているものの細々とでも奇妙な縁は続いている。
函館の記憶を第一回に書いたせいかもしれなかった。初めての新幹線、雨の音、古びたホテルの匂い、持ち歩いた手紙、長かった一夜。あまりにもあの日々はガキで甘えていて悟るまでに一体どれだけ傷つけたろう。
門を過ぎ庭を過ぎ、玄関前の庇の下へ入って傘を畳んだ。
風が涼しい。
短い触れるだけの口付けは冷えていたせいか少しひやりと唇に温度を残していった。
梅子が閉じた目を少しだけ開く。
呼ぶ声は自然と暖かさが籠もった。
役所からほとんど会話もなく距離だけ近づけて歩いてきたから、それで余計にそうなったのかもしれない。
「寒いけど、足平気か」
髪を纏めた幼馴染は彼を見上げて目を細めた。
こつんと、胸に頭を預けてきた柔らかな肩に片腕を回す。
温かいのでほうとする。
どこかで鳥が飛んでいる。
「ありがとうな」
耳元で上手くいえなかった一言を伝えた。
「はい。私は孝二郎君といるのがいいから、いいんです」
呟いて細い腕は抱き返す。
頬に触れる髪は湿気でしとりと感触が良かった。
ぱらぱらと小ぶりになる雨は耳に優しい。
屋敷の中から赤ん坊の泣き声がして、琴子さまがきっと疲労で苛苛しだす頃だから助けに行ってあげないと、と梅子は顔を緩めて夫に回した腕をほどいた。
そうしてまた少し時が過ぎる。
籍を入れて玄関先で一つ二つ言葉を交わして抱き合っていた。
雨のあの日のぱらつく匂いをいつでも思い出すことが出来る。
それは結構短い時間で、お定まりの誓いも三々九度もブーケもドレスもない結婚式で、立会人すら居なかった。
揺り籠をゆらして早朝の畳で懐かしい歌を口ずさみあやす。
孝二郎の幼い従妹はおむつを替えるまでひっきりなしに泣いていた。
母親と名付け親が順繰りに睡眠を交代して頼りない生命を育てていく。
琴子夫婦は奥の寝室で寝ている。
孝二郎が少し奥の書机でものを書いている。
『ありがとうな』と彼は言った。
いろんな意味がこもっていただろう。
そういろいろなことがあったから。
去年一年はたくさんの事があって。
その前二十数年だって幸せなことばかりではなかったし、幸福と不幸は同確率で平等にやってくるものと多くの形で知ってしまった。
でも幸福ばかりやってくる幸運を信じることも、悪いことではないはずだ。
ゆりかごのうたをかなりやがうたうよ、
昔懐かしい歌を繰り返して幼子をあやした。
明け方までの雨が弱まり風は冷たく木々が騒いで記憶は回る。
あの大きく古びた屋敷を懐かしく思う日も互いにきっと稀ではない。
生まれた場所から大分離れてしまったし、毎日のように遊んだり交わったりした部屋も庭も、手放しで歓迎された結婚ではなかったからなんとなし足を踏み入れにくくなっている。
でもそれは長い目で見ればたいしたことではなくなると梅子は思う。
一生帰れないほどの断絶ではなかったし、なんといっても今は現代で実は宗一さまだって孝二郎が思っているより頭がずっと柔らかいと梅子は思っている。
あれは半分くらい孝二郎坊ちゃまの劣等感からくる拒絶なのだ。
だいいちここで暮らして思い出を作っていくのもとても楽しい。
彼女のやかましい女主人は毎日お世話するのが本当に嬉しくて、名付けた子供の成長が日々とても楽しみで、疲れる問題はたくさんあっても風が優しく周囲は騒がしいのだし。
それに坊ちゃまがいる。
大好きで大好きで小さい頃から一緒にいるだけで嬉しかった孝二郎君が、いろいろあったけれどこれからはずっと、もっと近くで一緒に生きてくれるのだ。
そんなありえないことが起きたのだから、だったらなんでも上手くいく。
揺り籠の主はむずかってあまり眠りたくないようだ。
雨雲の隙間から陽射しが淡い。
肌にしみる風はいつしか柔らかなそれになり仄かな香りを手折ることなくとどけてくれる。
懐かしい子守り歌を聴く。
手書きの草稿を弄くり回して夜明けが眩しい。
おそらく周囲に眉を顰められてまで結婚しなくても傍にいることは出来た。
一緒に生きる以上、義務を怠れば叱られて、道を外れかければ泣かれて、きっと一生迷惑をかけるだろう。
それも結局、三つ子の魂百までで、雀百まで踊り忘れずということだ。
梅子が孝二郎を今でもとても好きなように、孝二郎は迷惑をかけるなら梅子がいい。
そしてできれば、これは最近になってやっと気付いて一生言わずにいるつもりなのだが、抱いていると口が軽くなるものだから隠し通せる保証はない。
「はいはい、いい子だから――」
徹夜明けに優しい口調も愛しく頬杖をついて梅子を眺めた。
柔らかな丸みをここ数ヶ月で帯びた身体の線は着物の生地でほんのりと隠されている。
梅子が孝二郎の方に振り返って視線に気付くと眼鏡の奥で瞳を深める。
孝二郎はペンを置いて傍に行き、隣で揺り籠を覗いた。
「そろそろ琴子さまと交代ですから」
頬を染めて微笑み梅子は重ねた指先を握り返してきた。
――その自分にだけ向けているあどけない幸せを誰かに取られる可能性に我慢が出来なかったのだと、自分のものになってから今更に知る。
「梅」
「はい」
「お疲れ」
髪を梳かれた女はとても優しい顔をした。
通いの料理婦が門の呼び鈴を鳴らす頃合まであとどれだけか。
小さな庭は早朝を迎え、冬枯れながらも淡い蕾は綻んで朝陽に照らされ美しい。
空は澄んで高く失ったものが多くあっても一番大事なものだけは今も変わらず傍にいる。
――ああ、そう。
私たちも子供の名前を決めましょう、と揺り籠をあやす着物の袖は穏やかに呟いて微笑った。
早春を告げる梅の香りは淡く儚く空に満ち、子守り歌を聴く幼子は眠りについて、見守られながら、いつしか誰にも訪れる人の生での春を待つ。