(幕間)
雲が早く、晴れているのに不穏な風が吹いている。
ホームの人ごみを一人でたとたどしく抜けて、見失いそうになる影を遠く遠くに追いかける。普段は車で送ってもらっていたものだからこの人波には腹が立つことこの上ない。
九月の暑さはまだ厳しくて押された背中に汗が滲む。時刻は八時半を過ぎた頃で、通勤ラッシュは完全に終わっていなかった。
背中はどこまでも遠ざかっていき、エスカーレータに乗り損ねた少女は階段の途中で転びかけてたたらを踏んだ。
折角の髪型はすっかりほつれ、襟も乱れてみっともない。
「もー……」
有野染井は溜息をつくと、ひと呼吸だけ歩みを止めた。
人ごみに消えかけた背をもう一度ぐっと睨み、夏服の小柄な肩で狭い隙間を押しのけて進む。制服姿の彼女を眺め、遅刻かと変な顔をする人はいたけれど気にしてなどいられない。きょろきょろするたび後ろで揺れるポニーテールはふわりと上品で、駆け足気味のつま先は細かった。
緩いスロープを小走りにあがる。
「あ……、え、うそっ」
開店前の土産物屋を通り過ぎたところで、ようやく目当ての少年が視界に入ったものの、――今度は予想外の改札に阻まれた。
まさかの特急改札口。
意外な展開に、混乱して立ち竦む。
手元の電子マネーを使えるのかが分からない。
うろ覚えの知識だが…、行き先によって、乗れたり乗れなかったりする筈だ。
ぐるぐるとホームと電光掲示板から行き先を確認して頭を整理しているうちに、頭上に遠く、到着と出発のベルを聴く。
行ってしまった。
――もう少しだったのに。
悔しさに電光掲示板を睨みつける。
今思い返せば付き合うきっかけからして不穏だった。
付き人の少女が一身上の都合で退学して、ぼんやりしていた男友達に、『付き合おうよ』と言ってみたのは染井だった。
元々仲が良かったこともあり、少年は悩むことなく色よい返事を返してくれた。
あの返事が、上の空ではなかった、とは言いきれない。
もしかして、深く考えずに頷かれただけだったのかもしれないのだ。
染井だって、好きで好きでたまらなくて思いが募って告白したというわけじゃなかったけれど。
付き合って三ヶ月も経ったのに、今でも(「彼女」が隣にいる筈なのに)少年は何かを探すみたいに斜め後ろに気を向ける。
帰るときに時々、鞄を自分で持っていることを不思議そうにしている。
気付かれないと思っているのなら甘い。
自覚していないのならもっともっと失礼だ。
どこかに行くのに声の一つも掛けてもらえず、このままじゃ「仲のいい級友(クラスメート)」と何が違うのか分からない。
もう一度だけ今来た道を振り返る。
どうやら送り迎えの護衛たちは撒けている。
夏服姿の女子高生に注意を向ける警備員もいなかったし、間違いなく出発してしまっただろう少年が改札口の向こうから現れることもない。
電光掲示板が表示を変える。
ざわざわと耳に染むのは雑踏の足音と出発の電子メロディ、そして次の出発時刻のアナウンスであり――誰ひとり、彼女の名を呼ぶものはいないのだった。