目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
【WEB拍手おまけログ】
作品ページへ戻る

(五)

秋が更けて、暫らく本家を梅子がやや引きずる足で歩き回り荷物を整理し始めて、新しい髪形が馴染んできてまた敬語を使われるようになった。
庭の葉が散りながら寒さに色を染めていた。
春海が勝手にやってきて庭で焚き火をし老女中に説教を食らったりしていた。
日曜の朝に部屋に訪れた彼女に、あくる日そして彼は向かい合った。
十六歳はこんなときにがむしゃらに止められるほどには子供ではなく、男の力で縋りつくほど歳を取っているわけでもなかった。
白秋の詩集を無感覚に捲り、閉じて、孝二郎は座ったままで梅子へ顔を向けた。
「いろいろご挨拶や準備もあるでしょうから。先に行くことにしたんです」
「……ああ」
何故こんなに短期間で女の顔になるのか分からなかったけれども、柔らかな笑顔はいつしか少女を抜け出そうとしていた。
孝二郎は詩集を指先で脇にやり、正座をしている幼馴染の短めの髪からうっすら見える耳たぶから、その下のうなじの線、着物の合わせに覗く傷へと視線を移してまた少し視線を上げた。
「梅子」
「はい」
「偶には遊びに来い。結構暇になるしな」
「え、何を言っているんですか。孝二郎君いつでも暇じゃない。ぐうたらしすぎですよ。せめて宿題くらいちゃんとしたら」
「うるせえな」
口を歪めて、目を逸らした。
出立の騒がしさか、遠い玄関で物音と人声がしている。
孝二郎は腰を上げて部屋端の机に歩いていき、函館への一泊二日に持ち歩いていて結局返し損ねた古いお守りを探した。
色が褪せ埃のにおいが染み付いている。
物心ついたばかりでこれをあげた頃はまだ、素直に怒ったり笑ったり一緒に遊んだり、していたものだった。
あの頃遊んだ蔵は今夏の改築で面影すらもなくなって思い出の品も焼かれてしまった。
「餞別だ、救出してやったぞ。有難く思え」
「わあ、嘘、諦めていたの。……ありがとう」
梅子は幸せそうに子供みたいに笑った。
「それでは。今まで長いことお世話になりました」
「ん」
孝二郎は言葉を飲み込み、湧き上がるものも隠して自分でもよくやったと思うのだが笑い返すことを覚えた。
日常だとか非日常だとかいろいろな理屈を捏ねてもそれ以前の真実というものがある。
最後には惚れた方が負けるのだ。

つまりはそういうことだった。

冬が来て春になり日が長くなって、制服を着ない学生になっても、眼鏡をかけた一人の少女は遊びに来ることもなく会う機会は訪れなかった。
中々子供が出来ないとかなんとかで女中達が叔母夫婦について噂をしているのや、梅子の義父母が便りを見せてくれることや、 暑中見舞いと年賀状に寄せる一言二言だけで時間が過ぎていった。
会いに行くには中途半端で忘れるには生々しすぎた。
染井は相変わらずで一度思う存分泣いた後は仲が良い微妙な友人関係のままに今でも時折電話をよこす。

やがてまた梅の花の季節が雪を溶かしても、庭は変わらず屋敷は静かだった。
父が引退宣言をして今までと何が違うのか孝二郎には良く分からないが母と諸国漫遊を始め、宗一が正式な家長となった。

春海が病気になってあまり遊びに来なくなった。

琴子夫婦からの年賀状では九州へ仕事の都合で移り住む等々のことが書かれており、知りたくない近況には失望した。

喪失感の中でどこか持て余した時間を時折、誘われて例のお人良し絵描きと全国の散策旅行に行って旅費のために方々で色々な不定期の仕事をし、面白い経験も多くしたがそのため兄には不良扱いされたのが面白くなかった。
健雄は一向に絵を売ろうとする努力をせず、時折関東で加わる染井に叱られている。

『二人で居たれどまだ淋し、一人になったらなお淋し、
真実二人はやるせなし、真実一人は耐えがたし。』

孝二郎は愛読書を眺め、夏が終わると思った。
ガタガタと風に鳴る硝子戸の向こうには黄色い月が輝いている。
ざわつく庭の木々は月明かりに興奮しているようだった。
久々にほんのついさっき、紀州旅行から帰ってきて荷物を置いて一休みしていたのだが、どことなく屋敷が少しく騒がしい。
といってもたいていの場合蚊帳の外であるから気にするほどのことでもない筈だ。

部屋に戻り座布団を足で移し、ここしばらく切っていない髪を無造作に掻いた。
溜息が出る。
秋は憂鬱だ。
着替えた衣類を洗濯場に持っていくのも面倒くさくとりあえず一箇所にだけ纏めておこうと立ったまま足で壁奥に押しやろうとした。
がらりと襖が開いた。

「失礼します、お久し振りです――ってもう、何やってるんですか。お行儀悪い」

振り返ると女がいた。
金糸雀色の着物に帯を締め、髪を結い上げて眼鏡をかけていた。
空いた襖の後ろに廊下は暗く、月明かりが影を僅かに伸ばしている。
二十半ば近い身体は丸みの他に肉感を帯び始めていたけれども背はあまり変わっていないと孝二郎は見ていた。
顎を僅かに下に向け、目を合わせる。
やや日焼けした女が懐かしそうに目を眼鏡の奥で緩めた。
「琴子さまが出産まではこちらに戻られるということで着いてきたんですけれど。旦那さまによれば坊ちゃまが先年卒業したにもかかわらず、就職もなさらずふらふらしているのでこっちにいる間ついでに叩きなおしてほしいそうです。……あの」
薄く紅を差した唇が、一度つぐまれて、また隙間を空ける。
少し不安そうな顔は女のものであるのに少女の面影はそのままだった。
「何か言ってくれませんか、孝二郎君。もしかして顔、忘れたの?」
込み上げて溜息が出た。
挨拶でもするべきなのかもしれなかったが特に思いつかなかった。
近寄ると片腕で抱き寄せて初めて腕の中に感じたぬくもりに堪らず目を瞑って指先に力を込めた。
諦めかけていた筈だったのも忘れることにした。


混乱した。
混乱しすぎて顔が焼けている鉄のようだ。
横目に映る短髪がいつ染めたのか根元まで茶色かった。
煙草のにおいが微かに鼻につき、身体が震えて手足が動かなくなる。
「……あ、あの、何」

裏返る声で何か言おうとしたら遮るように何か言われた。

胸がふさがり耳まで熱くなる。
これはいけないと理性が全力で戦って別の感覚を拒否した。
腕を無意識のように上げて脇をくすぐった。
過激なお嬢さまと五年以上遣り合って身につけた方法なので結構効いた。
不意打ちで緩んだ力に抗って、腕から抜けてあとは全力であとじさる。
「何、するんですかいきなり……!」
踵に半開きの襖があたる。
怒鳴って睨みつけたけれど顔をまともに見たわけではなかった。
「嫌です、困るの、やめて」
それだけ言って襖をがしんと閉めて廊下に逃げる。
寒くなってきて古傷が痛い、そろそろ台風かもしれない。
着物の上から肌を押さえ、かつて毎日歩き回った廊下の奥で蹲った。
心臓が耳の奥から今でも全身を打ち続けていた。
何かが込み上げる。
身体を抱くと切なさに涙が出た。

足音がしたので膝を持ち上げてすぐに逃げた。
「おい、待て」
「待ちません」
「待てよ、梅!」
廊下を曲がると多少人のいる部屋の前になってきたので梅子はこれ幸いと足を早めた。
孝二郎は構わず追ってきて梅子の手首を掴んだ。
「残暑見舞いの名字そのままだったじゃねえか。年賀状の婚約がどうとか言うのは、何だったんだよ」
梅子は幼馴染の、良家の子息らしからぬ指先に息苦しくて手をつかまれたまま仰いだ。
泣きそうな声が出た。
「いいから離して」
「どうなんだよ」
遠慮がちに指が離れたので卑怯と分かっていたけれど勝手知ったる横の戸を引き開けて中に飛び込み更に逃げた。
「あら、梅子ちゃん? 大きくなったこと」
「お久し振りですすみません若葉さん、失礼します!」
「待てよてめえ!」
確実に七年前より坊ちゃまは言葉遣いが悪くなっている。
自分のいないところでどんな生活があったかなんて知りたくもないのに。
厨房を通り過ぎ庭に通じる裏口を出る。
夜は明るかった。
生温かさの失われた涼しい夜気に、月明かりで髪がさらりと流れる。
痛みに足がもつれて息が弾み木に手をあてる。
早足では歩けないのに坊ちゃまばかりがずるい。
ひとつだけのサンダルを履いて出てきたから、なんとかこのままと思っていたのに靴も履かずに追いかけてこられて梅子は本気で泣きそうになった。
「おい、待てって」
「……うるさい、しつこい!」
涙声になる。
「何でそんなこと聞くの。知りませんそんなの、そういうのもういいんです、放っておいて」
やっぱり孝二郎は孝二郎で相変わらず梅子を泣かせることが好きとしか思えない。なんで帰ってきて早々混乱させられてかさぶたを剥がされなくてはならないのだろう。
伸びてきた手を振り払って庭に続く石段を降りていく。
よろけると焦った声がまた呼んだ。
「梅」
「これが普通なんです、普通に前みたいにてきぱき走れないの。本当は役立たずなんですから。だいたい財産もないから坊ちゃまみたいに嫁ぐ利点はないし、一生一人身がお似合いなんです! 顔だって髪の脇に傷が残ってる。腕だって消えてないし、半袖を着たら人前に出すの恥ずかしいって」
「それ、誰に言われた」
「でもお見合いで、旦那さまの、って清助さまの方だけど、お取引相手だからこちらから断わるわけにはいかなかったんだもの」
それだけではなかった理由は。
ざわりと庭の草が流れ、石の道に足元を冷たい空気が吹いていく。僅かな群雲が明るい月にかかっていた。
呆れた坊ちゃまの声がする。
「はあ、何だそれ。馬鹿だなおまえ」
「だって」
馬鹿とはなんていう言い草なんだろう。
庭の奥までくると建て替えた蔵があり新しく塗り込まれた壁は、月明かりで影と光がくっきりと見えていた。
木々がざわつく。涙は出ないけれど、泣くのは悔しいけれど、何でこんなことになっているのかと思うと肺から息が上手く出ない。
立ち止まると、振り返って、ほんの僅か離れたところに同じく止まった孝二郎を振り返る。
「だって仕方がないんです。仕方がないの。孝二郎君じゃなかったら、いい人でさえあれば誰でもそう変わらないんだから!」
庭の池が波立つ。
屋敷の明かりはうすらと月に混じり屋根まで照らしていた。
寒さの中で鈴虫が鳴く。
孝二郎が少し黙ってから平坦な声で応えた。
「その『いい人』は随分ふざけたことを言ったみてぇじゃねーの」
「……ええまあそれを知った琴子さまはいつもの三倍くらい激怒して、それで、まあご想像にお任せしますけど大変なことになって。ちょっと先月辺り夫婦仲が悪くなったりもして、その、大変でした」
「ああそうかよ」
月が雲からまた現れ、足元を濃い影に染める。
近付いて暫らく梅子を眺め、孝二郎は知らない声音でぽつりと言った。
「大体分かった。風邪引くぞ。戻ろうぜ」

そして手をそっと握って腕を引いた。

梅子は坊ちゃまが知らない人になってしまったと思い、それから、ただ三つ子の魂なのだと遅れて思った。
自分がここまで追い込んだくせに、あっさり考えを変えてそういえてしまう気まぐれが変わっていなくて、誰よりも知っていたそのままだ。
敷石を辿りながら皮膚の裏側が細胞ひとつ分熱をもち、段々と広がっていくのを感じていた。
風が涼しく庭を掃き、それに掻き消えるくらいの小声で梅子は唇を動かした。
手の感触が温かく、黄色い月がゆっくりと雲に覆われていた。

目次 次(終章)