(三)
窓口以外でも新幹線の切符が買えるとは知らなかった。
「指定席券売機」の前に立ち尽くし、孝二郎は鞄を背負い直した。
また耳障りな音がし、一万円札が戻ってきた。
何か操作を間違ったのかもしれない。
後ろには数人の列ができている。
諦めたような溜息とともに、みどりの窓口へ抜けていく老夫婦が額の裏をじりと焦がした。気を取られながら押したボタンはまた間違えていたらしく、警告音が響き最初の画面に戻ってしまう。
「くそっ」
無意識に舌打ちをしつつ当てずっぽうに今度はひとつ下の大きなボタンを押してみる。
購入方法まで、染井に聞いておくべきだった。彼女が買えたのだから楽勝だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
とにかく、操作するたびに違う画面になってしまうが、きっとたいした違いはないだろう。落ち着けばなんとか、なんとかなるはずだ。
さらなる勘で選択しようとタッチパネルに指を伸ばしたところで、痛みとともに背後から力強く、左の肩を掴まれた。苛立ち振り解こうとした背中から、鷹揚に宥めてきたのは年上の低い男の声だった。
「おいおい、ちょっと待てって。落ち着け」
聞き覚えのある口調に振り返る。
すぐ後ろに並んでいるのは、やまびこで前の席に座っていた大荷物の髭親父だった。
宗一兄と同じくらいの背丈だが、締まっているせいかずっと大柄に見える。男は孝二郎の肩をぽんと叩き、身を乗り出して脇に来た。
「分かんねえんなら聞けよなァ。ったく、ほれ」
呆然とする目の前で、男が淀みなしにパネルとボタンを数回押すと、画面があっけなく最初のメニューに切り替わった。
背後の列から、男を讃えるような気配を感じる。
被害妄想かもしれないと分かっていながら無性に苛立ち、俯きがちに目を逸らすとおろしたてのスニーカーが土埃で汚れていて気分が余計にササくれた。
(ちょっと間違っただけじゃねえか)
僻みに耽る孝二郎を見下ろして、傍の男が呆れ顔で手を出してくる。
「あぁなー。つまんねえのは分かるが、皆待ってんだからよ。行き先言ってみな。まとめて買ってやっから」
「……富良野」
「いや新幹線。新幹線だからな、まず。ま、じゃあ暫くは一緒だな」
そんなに簡単に、まとめて買えたりなどするかと思っていたが。――ものの数分で、手元には切符に加えて釣銭がじゃらじゃらと硬質な音を立てていた。
券売機から少し離れたベンチ脇で、男が指折り計算し、自分の出資分を取り分けている。
何がどうなっているのか分からない。
何度見ても、切符は間違いなく全席指定の八戸新幹線「はやて」の終点行きで、指定席も間違いなく取れていた。無言で切符を凝視していると、不意に額を小突かれた。
「礼はどーした」
「……どうも、」
「どこのお坊ちゃんか知らねえが、しっかりしろや。ま、いいだろ。お説教はまた後でな」
髭の男は腕時計に目を落とし、スーツケースをごろごろ引いて去って行った。
またなも何も、もう会うことがあるとは思えない。
知らない人間にああも気易い態度を取られることも初めてだったので、すっかり気が抜けて、孝二郎は傍のベンチに腰を落とした。
コンコースのドームから、湿り垂れこむ雲間を仰ぐ。
日差しが一筋漏れて床を照らし、やがて翳った。
「こーちゃんどうしたの?」
「んや、なんでもね………」
赤に黄色の紙袋を差し出して、栗鼠のしっぽのようなふさふさしたポニーテールが、傾げる首に合わせて揺れる。
気付いた時には遅かった。
「あ、指定席私も隣にするー! 切符貸してね!」
昼ご飯を買ってくるようにと使命を与えて撒く予定だった染井が、拒否する間もなく彼の手から指定席券を奪い取り、券売機へと駆けていく。
――しまった!
ぼんやりとしているうちに彼女を撒く機を逸してしまった。
肩を落としながら、押しつけられたハンバーガー屋の袋を開ける。色とりどりの、ハンバーガーの包みばかりが十個ほど入っていた。申し訳程度に飲み物とポテトが埋もれている。
なんだかもう、抵抗するのに疲れてきた。
……まさか全部食べる気ではないだろう。珍しさに金額いっぱい買ってみたのに違いない。
結局、チャンスだった盛岡駅で撒くこともできず、染井は当たり前のように改札を抜けて ついてきた。鼻歌交じりについてくる彼女と他人のふりを決め込みながら、指定席の号車を探す。
どうしてもというなら、せめて着替えてきてほしい。私立の制服が悪目立ちしまくっている。
苦い顔で指定の座席を探していると、またもや見覚えのある顔が、通路先の三連席で手を振った。
窓際にビール缶が置いてある。
「よォ。また嬢ちゃんと一緒か、なっさけねぇなあ」
染井が背後で一瞬早く気付いて叫び、孝二郎を押しのける。
「ええええぇ!? な、なんでここにいるのよう、空いてるんだからそんな嫌がらせしなくたっていいじゃない!」
「嬢ちゃん声大っきい。女の声はアノ時だけ大っきけりゃいいんだって」
「ぇ、……っ、う、うぅぅセクハラー! セクハラばかばか最低っ!!」
耳まで真っ赤にして勢いのまま立ち去りかけて……ハタと立ち止まり、染井は指定席券をたっぷり数秒間は凝視した。
やがて泣きそうな顔で男を睨むと真ん中席をひとつ空け、通路側の端に膨れっ面で座った。
「ゴメンな嬢ちゃん、免疫なかったか」
男がからかうように笑い、染井が何か言いたげに睨みかえしている。
孝二郎は嫌がる以前に脱力した。
予想していてしかるべきだったのだ。男が孝二郎の分とまとめて指定席を購入して、染井が孝二郎の隣の席を指定したということは、まあ、当然こういうことになるのだった。
「――だぁら、こう来てこうだっつーの。分かるかおい」
言いながらも小突かれる。馴れ馴れしい。
地図の読み方を説明し、この先のルートを手馴れた様子で幾つか携帯端末から検索し見せてくれる男にはそれでも一応、渋々ながら感謝する。『倉田健雄(くらたたけお)』と名乗った男は、長いトンネルで電波が途切れると端末をしまった。
髭のせいで随分歳上に感じていたが、改めてまともに顔を見ると思っていたより若かった。二十代後半か、もう少し上だとしても二十は離れていないだろう。
北海道の農家にじゃが芋収穫の季節労働に行くらしい。自宅は放置気味で年中あちこち回っているというから、旅慣れていて当然なのかもしれなかった。
「つうわけで、まぁ今日中に着くのは無理だな。途中で一泊して……にしても、しっかしなぁ」
健雄は、頭を掻いて孝二郎をまじまじと見た。
「……んだよ」
「おまえ、なんっにも知らないのなぁ。どんだけ箱入りだよ」
珍しそうに感想を述べる。言葉は悪いが先程からあまりにも気安いので、孝二郎もいまいち毒気が出てこない。
「外、あんまり出なかったんで」
「へえぇ。じゃあ家出は初めてってわけですか。イイねイイねぇ、今しか出来んもんなぁ」
「家出じゃねえよ」
横目で睨むと髭の口元が意味ありげに笑った。
「すまんすまん。親戚んちだよな、北海道の……どこだっけか」
「えー、何で飛行機を使わないの?」
少女が孝二郎の袖を引き会話に割り込む。地図を覗き込んで素朴な疑問を呈した。
「……高いところ苦手なんだよ」
咄嗟の嘘に、染井が信じられないものを見たような顔をした。
夏休みに観覧車に乗った相手には、苦しい嘘だったかもしれない。
「おっ何だ何だ、坊ちゃんも飛行機嫌いか! オレぁあの耳痛くなるのが無理無理、きっついよなー」
思いつかなかったとは言えないので彼女の手前、孝二郎は沈黙を守った。
話題を逸らしがてら、嬉しそうな隣の男に抗議する。
「健 (たけ) さん、坊ちゃんってのやめろよ」
「ハイハイすみませんね孝二郎くん。んじゃあ、まー飛行機苦手だってんなら電車かレンタカーになるわな。函館か札幌あたりで一泊かね……おまえさんさえ良ければ、函館だったらオレがツインで予約してっから、許可出れば入れてやってもいいが、どうするよ」
「えー何それゼッタイ怪しい! やめようよこーちゃん、二人で泊まろ?」
「そうですね怪しいですねー。でもなぁお嬢ちゃん、オレは孝二郎に聞いてるの。大人しくしてなさい」
手慣れたあしらいは苦笑気味で、子ども扱いされた染井はむっと黙ってそっぽを向いた。
隣でまた、冷めたポテトを珍しそうにつまんでいる。
孝二郎は少しだけ知らないものを見た。
生まれたときから周りにいたのは自己主張の激しい奴か、自分の話を聞いてくれない家族や親戚ばかりで、頷きながらにこにこ聞いてくれたのはいつもひとりしかいなかった。兄は寛容そうに見えて実のところ高みから次男を眺めていたし、父と母はそんな彼を亡くなるまで梅子の母に任せきり。歳近い双子は家も継がない半端ものを可愛がってくれていたが、どこかいつでも哀れむようだった。
……思えばこういう、いわゆる「普通の人間」と話す機会はほとんどなかったと思う。
学校も高級住宅街の一握りばかりが通う幼稚舎からの一貫であったから、梅子が通っていたこと自体が特例なのだった。
「ごちそうさまでしたっ」
さっきから怒ってばかりの短いポニーテールは、安っぽい味だと文句を言いながらもポテトとアップルパイを平らげて、トイレに立ってしまった。なんとなくそれを見送っていた孝二郎に、低い笑いが投げられる。
「これも俺の勘なんだけどな」
彼は健雄に目を向けた。
太目の眉の下で瞳が彼を試すように眺めている。
「『親戚』ってのは、お嬢ちゃんへの嘘だろ?」
一瞬、頷こうとして言葉に詰まり、懐の地図と手紙を握りこむ。
「嘘じゃねえよ」
「へぇ?」
男は読めない表情で笑った。
「まァいいけどな」
孝二郎は目を逸らす。
本当のことを言えば、このお人好しはきっと話を聞くだろう。そして……もしかしたら、目を背けていることすら、真実としてはっきり言ってしまうに違いない。
旅に出てから、予想は外れっぱなしで、見たくない自分ばかりを見せられる。
足元の鞄を爪先で蹴るようにして強く押す。
古いお守りが潰れたような気がした。
もう一度だけそこを苛立たしげに、今度は足の裏で蹴る。
(手紙なんかよこすんじゃねぇよ)
記憶の影に毒づいて、残りのコーラを飲み干してから手洗いに立つ。
盛岡以北はトンネルばかりで、車窓の景色もつまらない。
自動ドアですれ違った染井が一度立ち止まって、瞳だけで孝二郎の背中を追った。
健雄が好奇の視線を投げているのを、素知らぬふりで元の席に腰掛ける。
勢いよく座ったのでスカートが膨らみ、彼女は慌てて膝を押さえた。