目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
【WEB拍手おまけログ】
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(四)

――車窓が白んだ。
列車は前触れもなく青函トンネルを抜けていた。

八戸駅で特急「白鳥」へ乗り換えてから約二時間。
相変わらずの三人連れでボックス席に座っている。
男二人は通路側、窓際席には鞄が置いてあるだけだ。
向坂孝二郎は青いシートにもたれて向かい合う、道連れの男をちらと見た。健雄が気付いて視線に答える。
「何」
「何でもない」
「あそう。で、お嬢ちゃんは何してんのアレ」
「うっさいな」
揶揄する響きに孝二郎の顔が渋い。
トンネルを抜けて電波が回復した途端、染井は電話を握りしめてデッキに出ていった。
一生懸命、電話に向かって怒っている。また染井に甘い爺さん執事に無茶でも言っているのだろう。さすがに外泊許可は無理だと思うのだが、あの爺さんは染井が電話して頼みを聞かなかったことがない。
健雄が孝二郎に倣って染井を眺め、肘掛に頬杖をした。
心配そうなあたり、何だかんだと人が好い。
「マジでどうすんだかなぁ。ありゃあ泊まる用意なんかもしてきてねーだろ。男と違って準備だのメンドイだろうに」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんって、おま――」
列車がカーブで大きく揺れた。
男が言葉を切って俯く。何だか良く分からないが脱力したらしい。
「……なァ孝二郎」
「んだよ」
「清く正しいお付き合いは良いことだと思いますよ。でもおまえあれ見てなんとも思わんの?」
「知らねぇよ」
知らぬふりでぼかしたが、言わんとすることは分かっている。
健雄が背中越しに指差す「彼女」は確かに可愛らしく、短いスカートの上で腰はくびれてブレザーのネクタイは豊かな膨らみに押し上げられている。
そんな彼女と「親に秘密で旅行」というのも、孝二郎がかつて思春期の理想にしていた夢のひとつに違いなかった。
汚れたスニーカーの靴に視線を落としリュックを漁った。
冷房が強い。
念のため持ってきたウィンドブレーカーを羽織り、めくっていた詩集を閉じる。
肌寒いのは冷房のせいばかりではないだろう。
青森からこっち、ススキの穂に黄金の田、細く降りしきる冷たい雨まですべてが秋の風景だった。
今朝方発った景色はまだ夏の気配を残していたのが嘘のようだ。
海は見えるが青海からは程遠い。家の間にちらほら映る水平線は灰色で、荒く波がたっている。
雨は本州に置いてきたらしく止んでいたが、外の雲行きは怪しく、また追いつかれるのも時間の問題だ。
着替えがてらリュックの奥をごそりと返して時刻表を探した。茶封筒が手先に触れる。健雄に地図を見せる時にこっそりジャケットから出して荷物に突っ込んでいたのだった。
「おーおー。お嬢ちゃんどこにいても目立つね」
どうやら染井が車掌に注意されたらしい。
妙に楽しそうに彼女を見ている道連れから、隠れるように、便箋を抜き取り時刻表に挟んだ。
間に隠して読み直す。
見慣れた筆致は胸を締め付けるだけで意味も分からないままだ。
十六年間も一番近くにいたくせに、現在地の手がかりが消印しかないことが彼には一番腹立たしい。
影ができた。
できていたのに孝二郎はやっと気付いた。
「人の手紙読むなよ」
「なんだ手紙だったんか。安心しいさい、見てただけで読んでねーから」
真偽の判り辛い口調は軽く、男はそのまま指定席に腰を落とす。
大きく無骨な姿に孝二郎は暫く自分の背の低さを思い返して、キヨスクで買った牛乳にストローを差した。
啜ると妙に温くて変な味がした。
「……なんでこんなことになってるんだか」
喉の奥で呟いて、函館行きの特急が、沿岸を走る響きに聴き入った。
妙に賑やかな旅になってしまった。
残暑の九月、夕方時でも夜は更けるに遠かった。
それでも雲が垂れ込め屋根の並びは薄暗い。
いつも通り学校に行っていれば、授業が終わる時間帯だった。
家では今頃、騒ぎになっているだろうか。
書き置きはもっと分かりやすくしておいた方がよかったかもしれないが、まあ。
――有野家の方がもっと大騒ぎに違いない。
向坂の家は斜陽の旧家で、有野染井のような大企業一門というわけでもないから、護衛がどうのこうので揉めたりはしないのだ。
折よく通路へのドアが開いた。
染井がつかつかと戻ってきて四人がけの席の前に立ち、男二人をじろりと睨んだ。
なんとなく無言で奥まで座った二人を乗り越えるようにして窓際の席に行き、乱暴に腰を落とす。
孝二郎は路線図を手紙ごと閉じた。
「何よ何よ何よ」
ぶつぶつと顔も顰めっぱなしでローファーが前の空席を軽く蹴る。
「もー。信じられない。私だってもう高校生なのに過保護ったらありゃしないわ」
「染井、やっぱり帰れよ」
「『まだ』高校生の間違いだろーに」
「おじさんは黙りなさい。関係ないじゃない。こーちゃんが私の言うこと聞いてくれないんだから、私だってこーちゃんの言うことなんか聞かないもん。行くって言ったら私は行くの」
染井は肩をそびやかして言うと、窓に顔を背けてそれきり黙った。
小さな姉弟のはしゃぎ声が車両の前で響いている。

電車の窓にぽつりと、水滴が落ちた。
雨が降る。
煙る景色は海の明かりを映して、背中の振動が規則正しく眠気を誘う。
「台風になったら今日明日は帰れないかもしれないね」
溜息をついて、少女はやっと小さな声で呟いた。
そして孝二郎を横目で見上げて、また窓の外を見た。
どういう意味だか、と複雑に心中で応えて孝二郎は目を閉じる。

そして淫猥な夢を見た。

白い腰の一部だけが腐った木の匂いに溶けていた。
いずれ取り壊される蔵の影だ。
黒い髪がほつれて泥の水に浮く。
場面が変わったような変わらないようなゆらめきがあって庭を見下ろす蔵の二階の奥に寝ていた。
小学校高学年ほどの幼さを残した少女が頭上に現れて指を伸ばして頬の外側を、…めて……る。
古い雑誌の黄ばんだ破れ目では、銭湯でまぐわう男女の漫画が切れ端だけ見えていた。
少女の目線は緊張を孕み揺れながら僅かな明かりを遮って間近に、
――と思えばこそいつしか指先は女のそれになっており 耳の下を掠めるようにして首に縋りついて髪を貪ると喉を逸らしてすすり泣く。足首の瘤からあがっていくふくらはぎは白すぎた。

無意識に相手の名を呼びかけたところで意識は戻りもうすぐ函館駅につくとのアナウンスに車両は少しくざわついていた。


ガタガタと景色の歪む硝子戸が不安げに揺れている。
梅子は洗い場の手伝いでかけていたエプロンを外しながらへたばっている琴子を正座して見下ろした。
「台風来ますね」
「んー」
「琴子さま」
「うるさいわ。布団しいて頂戴」
仕事だか何だかで馴染みの恋人がぱったりと訪れない日が続いた。
高慢だったお嬢さまはすっかり弱々しくなってしまい、実家帰りの予定もない梅子にひたすらべたべた甘えている。
いつも所構わず情事を始めるのに説教ばかりしていた梅子も、こうなられるとなんともいえなかった。
膝枕みたいにくっついてきた年上のお嬢さまの前髪に触れる。気持ちいいのか、琴子が力を抜いて手首に額を擦りつけてきた。
「あの、お嬢さま」
「何よ」
“みたい”というか、これは、膝枕以外のなにものでもない。
意識するとなんだか無性に恥ずかしい。
逸らした視線の先で庭の桜が強い風にたわんでいた。
まだ雨は降らないのにどうして台風はこんなにも、何らかの予感をたたえて大きく空を膨らませていくのだろう。
「そういえば、清助さまもですけれど……春海さまも最近いらっしゃいませんね」
「別に春海なんてどこにいたって何してるか分かるもの。忙しいのよこの時期は。それより布団しいて」
さすが双子だなぁと思って梅子は目を丸くした。
そして思い出す。
「土蔵に春海さまの諸々のご本やお道具が仕舞ってありますけど、貴重品だけでもこちらにお持ちしたほうがいいでしょうか。 お山も崩れないとも限りませんし」
「知らない。布団をしかないと畳の上で襲うわよ」
白い手で触られるか触られないかに飛びのいたので、琴子の小さな頭がどすんと畳にそのまま落ちた。
「……痛い」
「お、お嬢さまには節操というものがないんですか」
転ぶようにして逃げ、壁際までじりじりとあとじさる。
以前からうすうす気付いていたが、無造作な雰囲気の春海と違って姉の琴子は「そういうこと」にひどく危うい。ここまでくると甘やかされて育ったのだからなどというレベルを超えているので対処の仕方が分らない。
飲み込んだ吐息が熱い。金糸雀色の袖を掴み、幼馴染の少年の面影が脳裏に浮かぶのを振り払う。
何故だかこちらに来てから、ひどく自分が女になっていく気がしてならなかった。
あんなに冷めていたのに思い出してしまうのも訳が分からず怖かった。
きっと、唯一、性に関わる体験をした異性だから、どうしたって記憶が結びついてしまうのだ。

蜘蛛の巣、薄暗いつめたい明かり、古びた雑誌のインクの匂い。

鮮明な記憶はただ惑わすだけで恐らくそれ以上の意味はない。
幼い想いを忘れるまで、誰か身の丈にあった男性に出会うまで、昔馴染みの坊ちゃまのことは絶対に思い出してはいけないと言い聞かせる。
後悔したことを忘れても、また傷つくに決まっているのだ。
「女中のくせに何を逃げているのよ」
琴子が肩から這うように身を起こした。
気だるい上目遣いに、耽る意識を引き戻される。
細い手首に似合わずぽてりとした手のひらの体温が肩に、伝わるかと思うと囁くように薄い吐息が耳朶を掠めた。
「あら……、耳の形が意外といいのね」
「ひゃっ、やだだから、やめてください私はお風呂を入れてその後でお蔵に掃除に行くんです」
とりあえず使用人控え室か厨房に行けば坂木さんか三ツ岡さんかとにかく誰かがいるはずなので、生意気とかわたくしに逆らう気とか拗ね始めた琴子を立ち上がってかわして、襖向こうに足を早める。
自分の立てる足音が女中に相応しくないはしたなさだと気付いた時はもう遅く、廊下に立ちつくすと梅子は両手で口を覆った。
真っ赤なので料理人の三ツ岡氏にその後たいそう心配されて夕食が鮭入りのおかゆになったのは別の話だ。

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