目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
【WEB拍手おまけログ】
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本編『黄色い月(4)』での空白時間軸内、新婚ほやほや琴子さまのとある一日。
又は御主人さまと女中のフラグ。

目覚めの光はカーテンのふちから、白く細く、ひとすじ伸びて。
朝告げ鳥に混じり静かに廊下を掃いては家に目覚めをもたらす女中の気配、ちたちたとベランダの柵を打つ水の遠さ。

琴子は、薄目を開けて、ダブルベッドの枕から額を浮かせた。
半身を気怠く起こし眠気の残る目を擦り左右どちらを眺めてみても、一昨晩までいつも隣で抱きしめてくれていた夫の姿は見当たらない。

――仕事だというのだから仕方がない。

いくら自分に言い聞かせても、小雨の朝に一人寝は寂しい。
琴子はひとつ、小さなくしゃみをしてから枕を握り、寝間着姿であくびをした。

雨のち小雪、春待ちの頃


-morning

穏やかな鼻唄が流しの上を漂っている。
和服でこそないものの、髪をまとめて割烹着に身を包んだ涼やかな横顔からは昭和の香りが漂っている。

――気付くまで三十秒を過ぎたらお仕置きの日にしよう。

物陰から眺めつつ、琴子は気まぐれに決めた。
炊きたて米の蒸気に包まれて、しゃもじで中身を返していた女中は、その瞬間にぞわりと肩を震わせて振り返った。
年下の少女はこんな時ばかり小鳥のように勘がいい。
「奥さま。おはようございます」
一瞬で非の打ち所がない微笑みを作れたことは褒めてやりたい。
一方で思惑が外れたことと、彼女の警戒心に琴子は若干気を悪くした。
最近、なぜだか自分のことを名前で呼ばないのも気に食わない。
「『琴子』でいいわよ別に」
頭ひとつ高い相手を睨むと、琴子は腰に手を当てた。
「おはよ。毎日早いわね」
「奥さまこそ、今日はずいぶん早起きですよ」
梅子がくすりと笑ってボウルに水を張り、菜箸を取り上げてゆすいだ。八方出汁に溶いた白味噌の香りは空腹を誘い、琴子は半ば支度の整った台所を見た。
家主の好みに合わせて普段は洋風にしている朝食も、「奥さま」一人であればきちんと和食に切り替わる。琴子は満足して口の端を上げた。
西向きの小窓から滲む光に照らされたキッチンに足を踏み入れる。広いダイニングは西南方に壁を接した角部屋で、南向きの大窓は空気の入れ替えのために開けられて、さやかな風にカーテンや植物たちが撫でられていた。

無事に結婚式を終えて新居での生活が始まってから約三月(みつき)。
洋室での新婚生活――「ふかふかのダブルベッド、カーテン越しの光で目覚める朝」の図――に憧れていたのは琴子自身なのだけれど、和風の屋敷で生まれ育ってきた彼女の肌は、畳と布団にまだ未練があるらしい。ダブルベッドもソファも毛足の長い絨毯も、ふかふかしすぎていて落ち着かない。座布団が恋しい。
妹に言わせれば「マンション暮らしとはそういうもの」らしいのだが、部屋を間違えたような心もとなさは拭えなかった。
それでも馴染んだ腕と、無防備な彼の寝顔が目覚めた時にありさえすれば、違和感なんてすぐに忘れてしまうのに。

「お着替えは先になさいますか?」
「……面倒くさいからあとでいいわ」
キッチンでは梅子にちょっかいを出そうとしても躱される。
台所は彼女の領分だ。
つまらないので、ダイニングに座って足をぶらぶらさせながら梅子の働きぶりを眺めるしかなかった。
やがて、温かな朝ごはんがコトコトと並べられて、漆塗りの箸が添えられる。
通常ならば夫と差し向かいで食べる朝食だって、一人だと寂しい。
梅子がそばについていてくれなければ、豆腐のやわらかさにだって心が温まったりしないはずだ。
大根のぬか漬けが、米の甘みに混じり絡んでしみわたる。
一人の朝食なんてつまらないと当たり散らしてやろうと思っていたのに、あてが外れた。
「……おいしいわ」
「はぁ。ありがとうございます」
女主人の渋い顔に梅子が首をかしげる。
わかっていない。おいしい。


-daytime

家事全般は基本、梅子がいれば問題なく回るのだが、もはや妻なのだから琴子にだって仕事もある。
主なお仕事は社交である。清助の妻として接待を兼ねた会食に出たり、趣味に見えて実のところ交友関係の必要な奥さま方とのランチに観劇に習いごと、エトセトラ。
実のところ琴子には、これといった趣味がない。週に二度、以前と変わらずお琴の教室に通い続けてはいるが、はっきりいって惰性である。
趣味は、趣味はといえば、物心ついたころからどんなにからかってもいじめても優しく手をとってくれる遠い親戚の少年と、一緒に遊ぶことだった。
彼を異性だと意識するようになった年頃からもう、夢は少年のお嫁さんだったわけで、――そうしてみれば琴子は、もう夢の中にいるわけだ。

と、いうわけで夢のお仕事である。
奥さま方との情報交換もといご昼食会に行かなければならない。
「奥さま」
「何よ」
「めくらないでください」
「別に下着を見てるわけじゃなし、いいじゃないの」
玄関口で靴を履いたところで膝を抱え、見送りに来た割烹着の裾をぱたぱたとめくって鬱憤を晴らす。
真面目な梅子が赤面するので、面白くてもう少しぱたぱためくった。
まもなく、リビングの柱時計が鳴った。
琴子は低く唸った。
これ以上行き渋っていると本格的に時間に遅れてしまう。
「じゃあ、夕方には戻るわ……あ、そうそう。お礼状の便箋が足りなくなりそうだから、買い物に出るならついでに紙屋へ寄ってちょうだい。名前を言えばわかるようにしてあるから」
「はい、奥さま」
「それと、次は名前で呼びなさい。呼ばなかったらお仕置きよ」
最初に「奥さま」と呼ばれたとき、琴子があまりにも喜んだので女中がそうしてくれていることを、気まぐれで飽きっぽい女主人は既に忘れている。
行ってらっしゃいませ、と見送る梅子は、困ったように微笑んでいた。

春一番も近いのか。 エントランスから外に出ると、冷たい風が頬を打った。
細雨(こさめ)は止む気配もなく、タクシーまでの短い階段すらも煙っている。
タクシーの扉を開けてもらったときに聞こえた声も雨音に紛れて最初は気付かなかった。
割烹着姿の女中が、何かを抱えてエントランスから早歩きで出てくる。
「奥さま、奥さま」
運転手を待たせて、霞む階段を駆け戻る。
時間はないがとりあえず、言いつけを忘れた悪いお口を横にむいっと引っ張った。
「いふぁいでふこほこはま」
「よろしい。ご用はなあに?」
頬をさすって女主人を恨めしげに見つめた女中は、雨空にちらと目をやった。
「上着をお持ちになってください。午後から冷えると思います。雪に変わるかもしれません」
「そう」
梅子が淡い笑みで抱えた羽織を差し出している。
「……ありがと」
この冬を通して分かったことがあった。
彼女が天気は下り坂になると告げたなら、確実にその通りになる。
一度も外れない。
残った傷が痛み分かるのだというから、つまりは梅子が主人を庇って半年前に負った傷が知らせるのだろう。
身体をいたわるとその度に身体でない場所を痛めて頭を下げる少女が痛ましかった。

奥さま方との長く続いたお茶会が終わる頃。
ちらちらと。
小雨は春の雪に、変わりつつあった。


-evening

電話をしても、出なかった。
遅い買い物に行っているのかと思ったが、玄関には彼女の靴が残っている。
キッチンには割れた皿を途中まで片づけた跡もある。
こんなに寒い雪の日には、台所に立つ彼女の顔が辛そうに歪むことが良くあった。
春になるにつれてそのようなことも少なくなり、怪我の後遺症も薄れていくのだとばかり思っていた。
自身の迂闊さが、恨めしかった。

女中部屋に鍵はかかっていなかった。
明かりをつけると、箒を抱えたままベッドにもたれ伏せている梅子がいた。
「梅子」
「……は、い」
揺すると、心なしか身体が熱い。
それなのに、朦朧と時計を見上げた梅子は、慌ててからだを起こそうとした。
「大変、ああどうしよう、買い物に」
「明日でいいのよ」
肩に手をかけ、押し戻す。
そこでようやく、梅子は主人の帰宅に気付いたらしかった。
「琴子さま……」
女中は眼鏡の奥の瞳を一瞬、揺らがせてからぎこちなく表情を作った。
微笑んだつもりなのだとしたらこのうえなく下手だった。
「……必要なものがありますから。今ならまだ、閉店時間に間に合いますし」
「わたくしがいいって言ったらいいのよ。休んでなさい」
また動こうとするので力を籠めると、弱々しく抵抗された。
「でも、あの」
「なにを誤魔化そうとしているの。からだが痛いことくらいわかるわ。わたくしを馬鹿にしているのおまえは、おまえの主人は誰なのか、わたくしの目を見てはっきりお言いなさいよ」
「え、あ……、……琴子さま、です…………でも」
「『でも』、何」
硬い声で先を促す。
それだけのことで、
一本だけ残っていた蜘蛛の糸が、頼りなく、ふつりと雪風に断ち切られてしまったみたいに――まだ十七歳の、少女の瞳がじわり潤んだ。
「でっ。で、でも、私、おさらが、」
重力には逆らえず盛り上がった涙が、絹糸になり白い頬を伝う。
琴子はわななく唇を、痛ましそうに見つめた。
「あの……、琴子さまに、ちゃんと直々にお願いされたのに、私、おさらが、掃除しようとしたせいで、あんなに時間があったのに、だってもう、お店が閉まってしまうんです、行かなきゃ。私がいけないんです。やっぱり今なら走っていけばまだ間に合……」
「だから、気にしないって言ってるじゃない!」
伸びるくらい袖を引いても掴んでも、言葉が相手に届かない。
俯いてぽろぽろと泣いているだけで海がそっと満ちていくみたいに、空気が蒼く、しろく、冷えていく。
「だって、お皿だって駄目にして、なのにこんな、こんなおつかいもできなくなってしまったらもう、わ、私、お役に立てな……やっぱり私、もうお暇をいただいた方が」
「いい加減にしなさいよっ!!」
思わず怒鳴った声が涙声だったことに琴子は自分でも驚いて一瞬、上げかけた手を止めた。
奥歯を強く噛み締めて、そのまま勢いよく頬を引っ叩く。
もう一度、目の前にある女中の顔にぺち、と触れて、弱々しくまた叩く。
「ひ、暇だなんて、ぜっ……絶対に許さないわ。絶対に許さない、二度と言わせないから……!」
もう一度叩こうとしてできず、身体の芯から力が抜けた。
涙が止まりそうにないのが悔しくて、そのまま梅子の胸に顔を埋める。

他の誰が「足手まとい」だと陰口を叩くことがあったとしても。
例え万が一、大好きなあの人が、彼女を厭う事態になったとしても、琴子だけは、この傷だらけの少女を一生守ると決めていたのだ。
梅子が、自分を琴子にとって必要じゃないと思うだなんて、そんなことは月が逆さに昇るくらいにあっていけないことだのに。

「なのに何よ……馬鹿、分からずや、生意気……っ」
蒼白になった梅子が、慌てて顔を上げると琴子の肩に縋った。
「奥さま、私、ごめんなさい」
「名前で呼びなさいよ馬鹿ぁ……」
「琴子さま、あの、泣かないでください。すみません。すみません。ごめんなさい」
「泣くわよ! せっかく、せっかく連れてきたのに何よ!」
しゃくりあげると声が裏返った。
「そ……っ、そんな表情(かお)を、してどこに行く気なの。で、出て行きたいんならね、幸せもちゃんと持っていかきゃだめなのよ。とびきりの奇跡を見せびらかして笑って出ていくやり方以外は認めない、と言ってるの!!」
しがみついていた、傷のある腕が撃たれたように竦んで、力を弱めた。
「こと、こさま」
小刻みに揺れる腕はそのまま静かに、琴子の背に回された。
「……すみませんでした。梅子はお許しなしではどこにも行きませんから。泣かないでください、……ごめんなさい。ごめんなさい」
ありがとうございます。と、ささやき声で付け加えてから女中は主人の黒髪に額を乗せた。
またこの子を縛ってしまったかもしれないという気持ちは傍らにあったけれど、琴子はそれで十分満足して涙を拭いた。

「……別にいいわよ、赦さないから」
素っ気なく、言ったつもりだ。
言い放ってからもう一度涙を拭い、梅子の顔を覗きこんで笑う。
「喧嘩も口答えもこれでおしまいにして、いつも通りの一日に戻りましょう。雪で冷えたから夕食の前に温まりたいの。今すぐによ。だから買い物はいらない。湯浴みの用意をなさいな」
「はい」
梅子が俯いて、小声で答える。
眼鏡を外して、目元を手の甲で一度だけ拭いた。
湯浴みの用意、といっても浴室は朝のうちに洗ってあるので、スイッチ一つで風呂は入る。
「それと、夕食には出前を頼むから」
「出前、ですか?」
出前という概念を知っていたのか、という顔をされたので女中の額をぺちりと叩く。
「鈍い子ねえ、旦那がいない夜くらい羽根を伸ばさないでどうするのよ」
「はぁ……」
琴子はいったん部屋を出ると、隠していた仕出し弁当屋のチラシをいそいそと持ってきた。
「春海に貰ったの。あの子はもう全部のメニュー食べたらしいわ」
梅子は目を丸くしてチラシの裏表をためつすがめつする。
仕組みとしては知っていても、こういうものに頼る発想自体がなかったらしい。
「もう春のお弁当が出てるのよ」
まだ赤い目で、にっこりと口の端を上げた女主人からは、春の匂いがした。


-night

「おまえも一緒に寝るのよ」
「は?」
何を今さら驚いているのかさっぱり分からないが、梅子が毛布を抱えたままで固まっている。
ご主人さまに寝室へ呼び出されたら、追加の毛布くらいしか用事を思いつかないだなんて、想像力がまるで足りない。
琴子は、傍らの空いた枕をぽんぽんと叩いて手招きをした。
「ほら来なさい」
「い、いつも通りの一日にするっておっしゃったじゃないですか」
「だからいつも通りでしょ。このベッドは二人用なの。清助がいないから、代わりにおまえがそこに寝るのよ。それとも何。わたくしが寂しく一人寝していてもおまえの心は痛まないわけ」
「い…えいえいえいえ、む、無理です、そんな畏れ多い」
「無理って何よ。おまえの御主人さまは誰」
「琴子さまです。でもそれとこれとは別です。旦那さまにも叱られますよ」
「……そうかしら」
「そうなんです! も、もっとですね、お嬢さまは貞操観念をというものを」
顔を真っ赤にしながら吃る女中に、琴子は長い髪をかきやって嘆息した。
「清助以外の男になんか興味はないわよ、南瓜か胡瓜よ失礼ね。何を想像してるわけ」
「えぇえ……?」
眼鏡越しの大きな瞳が超・理不尽だと語りかけてきているが、そんなことには気づかない。
「ごちゃごちゃと煩いわねぇ。言ってごらんなさい、ほら。何が嫌なの」
「……へ、変なこと、なさるじゃないですか」
「嫌なの?」
琴子は首をかしげた。
壁際の女中は脱力した。
「で、ですからそれが貞操」
「なんでよ」
「えええぇ」
「それに何よ変なことって。好きだから好きと行動で示しているだけよ」
「あ、あの、琴子さまのお気持ちは充分」
「分かってなかったでしょうに」
つんと顎をそらしてそっぽを向いて、琴子は膝を抱いた。
「おまえのことが好きよ。頑固で生真面目で生意気で、贅沢なんて言ったらいけないなんて思っているお馬鹿なところが嫌いだけれど……でもね」
手を差し出すと、わからないなりに梅子が片手を添えてくる。
袖から傷の覗く腕を、握って引くと、近づく顔を真面目に見つめた。

琴子は気まぐれで我が侭で欲深だ。
だから祈りも願いも尽きることはないけれど――今はなによりこの子に、幸せで報いたいと思うのだ。

「たくさん話をしてちょうだい。願いがあったら言いなさい。ちゃんと、聞くから」
「え、では一緒に寝るという御命令は撤回」
「しないわよ何言ってるのよ」
「………………」
女中は悲劇的な表情をした。
「どうしてもとおっしゃるのでしたらご一緒させていただきますけど……、せめて私のお部屋にいらっしゃってくださいませんか? 私はお客さま用の布団を使いますので、」
「意味ないじゃないのそれ。狭いから嫌って言わせるつもりね。わかったわかった、そっちの部屋にもダブルベッド買ってあげる。明日買いに行きましょ」
「いえそういうことではなく……」
諦めの悪い梅子も、主人に手首をがっちり拘束されていることに気がついて、ようやく観念したらしかった。
暖房と電灯を消すと、体温だけが残るらしい。
おずおずと潜り込んできた温いからだを抱きしめて枕にすると、びくりと強張る。
失礼な女中である。
明日はわからないが、こんな雪の夜に無理させるわけがない。
「ばかね、何もしないわよ。……おやすみ」
「……おやすみなさい、琴子さま」
優しく背をなぜるとふにゃりとなって、腕の中のからだがやっと気持ちのいい枕になった。
春を待つ夜。
いつも通りに終わる、ふたりにとって、少しだけ特別だった日。

(10周年企画でかおるさとーさんにリクエストいただきました、ありがとうございます!)
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