目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
【WEB拍手おまけログ】
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(三)

『もしもし? 梅子ちゃん? 今ねぇ、富良野にいるよお』
「あざみさん」
今時珍しくプッシュホンでもない黒塗り受話器を耳に押し当て、梅子ははたきを片手に小さく笑った。
新婚旅行中の同僚が、電話越しにもあまりに幸せそうなものだからおすそ分けをもらってしまう。
「先々週いただいたお土産、美味しかったです。ありがとうございました」
『ふふん。千葉の名産ですから』
実家自慢。
自分の実家はやはりあの「家」なのかなと頭の隅で思いながら梅子は何気ない会話を交わした。
「どなたかに代わられます?」
『ああ。お嬢さまがいらしたら代わって』
「はい」
確か琴子がいたはずだ。
「お待ちくださいね」
『あ、梅子ちゃん』
「はい?」
『言い忘れてた。昨日頼まれてたお手紙、出してきたよ』
北海道と違いこちらには梅雨前線が乗っている。今いる廊下でも湿った空気が床をたわませていた。電話向こうの観光客らしきざわめきに耳を澄ます。
梅子は目を細めて、遠いなつかしさに浸った。
それでは今頃、封は開けられ彼は興味も持たずに読み始めるだろう。
何か彼女ができたようなことを、この前帰省した春海が教えてくれたから。
身分違いのお坊ちゃまにはそれこそ揺りかご時代から始まった最後の迷惑であるかもしれないけれど、願わくば最後のお別れには多少なりとも思い出してほしい。
『……梅子ちゃん? もしもしー』
「はい。ありがとうございました。お嬢さまに代わりますので待っててくださいね」
レトロな黒電話は、晴海の趣味だと聞いている。当然、保留ボタンなどというものもない。電話台に受話器をことりと置くと、奥の主人部屋へと摺り足で向かった。
このお屋敷は末っ子でしかも双子のお嬢さま方が、なにかの結果にご褒美ということでもらったものらしい。さして大きくもない関東郊外の古屋敷ではあるが、本家の隅でのけ者気味だった末っ子達には充分な「贈り物」だった。
――なんだかなぁ。
スケールの違いにいくら世間知らずの梅子でも首を捻ってしまう。中古といえど家丸々ひとつを手にするなんて、世間では分割払い制度で頑張るものだと聞いている。
……ともあれ、適度な広さの家というのは、家を保つ役割の彼女達にとってはありがたいものだ。
琴子のせいで割れた硝子戸だけは取り替えたために新しく、曇りの空をゆがめもしない。
襖の前に立てば、なにやら物音がしている。
「琴子さま」
と口を開きかけて、金糸雀色の袖口からこぼれた手首がふと止まった。
湿気の多い廊下で立ち竦んで、口を引き結び、紅潮した頬を俯かせる。
かすかな粘りを含んだ断続的な響きは息遣いに混じり襖越しにも情事の生々しさに色を添えていた。
喉がじりじりと乾く。
動悸が激しくて膝が震えた。
立ち去りがたいのはどういう心理効果なのか分からない。
――そういえば先程、琴子さまにお客があった。
接客中であるなら、本来なら急ぎでもない電話に取次ぎなどしないはずで、ただ少し孝二郎のことがあったから混乱してしまったのだ。
ふらふらと音を立てぬように引き返し、受話器に息をこぼす。
「お嬢さまは、お取り込み中でした……」
『あらー。じゃよろしく伝えておいてね』
「……はい。お元気で」
朦朧となんとか声を出す。
がちゃり、と落すように切って、へなへなと玄関脇の廊下に膝を崩す。
暑かった。
六月は過ぎ去り、梅雨前線はそろそろ北へと抜けるだろう。
昔土蔵で近しい誰かさんと見た古雑誌などが今でも記憶に残っていたとは知らなかった。
興味に駆られて見ることのできた幼い頃とは現実味が、違う。
「ああ、もう」
弱く呟いて顔を覆った。
指の間で前髪がほつれて眼鏡の縁が僅かにずれた。
梅子は弱々しく思い知った。
成長するというのはそういうことだ。

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