(三)
梅子は孝二郎の例えば奥さんになれるというような夢を、抱いたことはない。
何度か仮定の仮定、という形で思い浮かべてみることがあったにしても、そうなりたいと本気で夢見ていた頃がない。
女の子は女の子と基本的には結婚しないし、お姉さんは弟と、お兄さんは妹と、普通は結婚したりしない。
法律でゆるされていない。そうしたくても権利がない。
そういうレベルだった。
そういうことだった。
彼らは主人で、あたりまえに対等ではありえなかった。
だから不思議な話だ。
夕焼けが峠に眩しいのも、手に抱える「坊ちゃま」の鞄をふとここに落としていってしまおうかな、なんて心の端で思うのも、梅子の想定外の動揺だった。
どこかで期待、していたわけでもないというのに、不思議な話だ。
深い色のプリーツスカートの裾が揺れ、後れ毛がふわりそよいでいる。
梅子は隣の孝二郎を見る。今日からは視線をとどめないようにしようとそうして思う。憎らしくて喧嘩もして、お節介を焼いて、たくさんのことをしてきたけれども、それらの些細なことも仕方のない気分屋な様子すらも大好きでしようがなかった。
――でもいいのだ。
昨日の彼の言い方は、とてもひどいと思ったけれど、怒るより前にそうか、と思ってしまったのだから。だって梅子は幼馴染でしかなく、それ以前に旧家の召使い風情、という身分で、この現代社会で何をと思っても、あの「家」というのはそれが間違いなく通用している空間なのだから。
孝二郎は嫌いだ嫌いだと言い張っていても、彼もあの家の人間だ。
そういうことだ。
そういうことだ。
『二人で居たれどまだ淋し、一人になったらなお淋し、真実二人はやるせなし、真実一人は耐えがたし。』
唄うように朗読してうふふと笑う女性を目の前に学生服のまま孝二郎はふすまを閉めた。
この日は初めて梅子が帰り際、喧嘩のせいでもなく一言も口を聞かなかったので、なんとなく翳る気分のままだらだらと戻ってきて、自室のふすまを開けた途端のことだった。
――よりによってこんな時期に、マジか。
滅入る気持ちを僻み胃袋に放り込み、もう一度眉をひそめてふすまを開ける。
……やっぱりいた。
どう見てもいた。
確かに自分の部屋だが間違いなくいた。
敢えて深く突っ込まずに黙って部屋を横切り上着を脱ぎ捨て、鞄を放った。視線が来てるがとにかく無視する。
「孝二郎」
艶やかな声が聞こえても気にしない。
もう一度呼ばれたのも気にしない。ここでの着替えは諦めて風呂にでも入ろう。
「……無視する気ね。無視する気だと確信した。気にしないわよ別に。いっそ何様のつもりかと襟を掴んで脅したいくらいだけど気にしない。本当は気にしてるけど。孝二郎に無視された」
「……うるさいな」
建前の後にもれなく本音を付け加える癖が成人しても治っていない。
げんなりして孝二郎は眉間の皺を深くした。こんななら梅子との沈黙の帰宅時間のほうがまだましだったかもしれない。
と、気配が不意に浮き上がって近付いて止まった。振り返れば、颯爽と立っていた二十歳半ばの女性は彼より頭ひとつ分低い顔をくいとあげ、薄い肩でふんぞり返っていた。日本人形のような長髪が肩の脇でゆれる。
「んだよ」
「私が今この部屋で読書していたのね。それはもう陶然としていたの」
「だから?」
「随分よね。いきなり邪魔したくせに随分な反応だと思う。あなたはきっと失格。怒涛の勢いで失格。もれなくこの部屋から出て行った方がいい。本当は私が出て行ってほしいだけ」
ぽん。と肩を叩いて真剣に言われたのでお前が何様かという言葉が出口を見つけそこなった。読書をしていたとか言っているがそれは孝二郎の愛読書だということも言いそこねた。
しかしここで出て行くのは何か明らかに間違っている、と思っているところに運良く古株女中の若葉が通りがかったので、孝二郎は一息をついた。
「――あらあら。お嬢さま、いらしてたんですのねえ」
「久し振りに来たんだけど、若葉も元気そうでよかったわ。よかったよかった。孝二郎は背が高くならないけどにいさまに似てきたと思うの。私は背が低い方が好きだけど。大好きよ孝二郎」
「余計なお世話だよ」
じと目を向けて孝二郎はぼそりと呟く。
自分より七つだけ年上の彼女――晴海は、孝二郎の祖父の末娘である。言い換えれば父の歳の離れた妹であり、宗一と孝二郎兄弟の叔母にあたる。
難しいが、なんのことはない。
――ちょっと微妙な変人の親戚である。
ちなみに春海は一卵性双生児なのだが、姉の琴子は妹に輪をかけた世間知らずのお嬢さまで、孝二郎のことは甥どころか家来とでも思っているらしい。それはそれでたちが悪く、どちらが来ても孝二郎に迷惑なのは変わりがない。二人ともが幼い頃の孝二郎を知っているので、これまたやりにくいことこの上ない。
要するに孝二郎はこの家が嫌いだ。兄も親戚も父も母も祖父も祖母も、憎むほどではないにしても、所謂「金持ち」の匂いがするからである。
その上自分は、いつでも一番下っ端だ。
「孝二郎。一緒に牛乳を飲みに行きたい」
「叔母さん一人で行けば」
「春海姉さんと呼んで」
相変わらず親戚は鬱陶しい。
幼馴染の女中とは近頃距離を取れなくなった。
昨夜の小雨の代わりに花は庭に揺れ、遠くの方からかすかに夕餉の香りがしていた。
押入れの写真の束は、変人の叔母に見られてはいないだろうか。
その晩夕飯に呼びに来るのが梅子ではなかったことを孝二郎は一拍遅れて受け止めた。