終章 『揺り籠のうたを』
(一)
七年前の話だ。
熱が下がり痛みが多少はましになり、眠るより目覚めているのが多くなった頃の赤い夕べ。
栗色の髪を後頭部でひとつに結んだ制服の少女が、表情もなく傍にいた。
晩夏の風にはひぐらしが混じり、懐かしいブレザーに梅子は学校を辞めてしまったことを少しだけ後悔した。
目の前の可愛らしく手首の細い彼女は、かつてのクラスメイトのうちでも随分と手の遠い方だった。
大金持ちで送り迎えには黒塗りの運転手つき、頭は良くて笑顔が明るい。
眼鏡を外していたので少しぼやける視界を細めて、梅子はほうと息をついた。
少女が膝に手を置いたままで顔を上げた。
どこかの部屋でナースコールが鳴っている。
「あなたのせいでふられちゃったの」
まだ個室だったので窓は大きく、開いた隙間からの空気に少女のポニーテールが揺れた。
梅子は何のことかな、と考えかけて悟り、もう諦めていたくせに少し切ない気持ちになった。
なぜだろう。
彼女がほしいとあれだけ言っていたくせに、有野さんはとても彼の好みに合っていただろうに。
私のせいだなんてありえないのになぁと迷惑な気にもなった。染井が梨を五個ほど持ってきてくれたのはとても渇いた喉にそそるいい匂いだったのだけれども。
「七条さんなんて大っ嫌い。ばーか」
背を曲げて座ったままで膝に肘をつき、さして意地悪そうにでもなく憎しみを込めたわけでもなく、ただ発音したみたいに軽く軽く染井は呟いて悲しそうな眼をしていた。
だからなんとなく謝らなくてはいけないようで梅子は小声で謝った。
うん、と染井が頬杖をやめて背を元に戻して、生温かい光に顔を照らされて頷く。
その顔がとても真っ直ぐだったので梅子はまた、細く息を漏らした。
「……有野、さん」
「無理して喋ることないのです。反論されない隙を狙って来たんだから、むしろ喋っちゃダメなのっ」
腰に手を当てて立ち上がって覗き込まれる。
ブレザーの制服も、夏服はシャツにネクタイと涼しげだ。
きっとこのまま夏が終わる。
冬服にわずか数ヶ月腕を通したきりの縁遠い学校とはもう二度と関わることもないだろう。
揺れるリボンを見上げているとじっと睨まれて瞬きをした。
それから少女がふと、瞳の色を深くした。
「あのね、」
口をつぐんでまた開く。
染井は梅子を見ないままで立ったままにぽつりぽつりと言った。
「すごい剣幕だったんだよ。こーちゃん本当に、あなたのこと心配してたんだからね。泣いてたんだからね。追い出されたこと恨まないであげて」
最後の言葉と一緒に、やっと染井は目を合わせてくれた。
風が吹く。
きっと忘れた想いなんて簡単にそんな風に、空気の流れみたいにじわりと心にしみていくものだ。
だけれど今更合わせる顔なんてなかったし散々生きるとか死ぬとかを往復した後に、これ以上悲しいこととか報われないことに耐えることを考えると疲れてしまった。
だから出て行ったのだ。
そうすれば絆は細くとも残って望んだ形ではなくとも、一生仲良くしていくことはできるかもしれなかったので。
「嗚呼、嫌々、行きたくないわ」
「我侭言わないでください」
「わたくし身重なのよ。つわりが辛いの。労わりなさいよ」
「そうですか。大変ですね」
棒読みすると間髪入れずに奥さまが蹴った。痛い。数年前に三十路を迎えたにも関わらず気性のせいだろうか、未だに主人の行動は力いっぱい若々しい。
梅子は痛みに顔をしかめた後で、長年お世話をしてきた奥さまの頬に手を添えて優しく微笑った。
「大丈夫ですよ。お辛くなったら旦那さまがいらっしゃるんですから。皆さん気遣ってくださいますよ、……ね?」
琴子は怒り続けるタイミングを失ってもぐもぐと赤面した。
「う、五月蠅いわね。そういう問題ではなくてよ、ただ行きたくないの……」
「でも春海さまがいらっしゃるんでしょう」
「それは会いたいけど別に自分で会いに行けばいいんだもの」
「たまには外の空気もお吸いになった方がいいですよ。ちゃんと待ってますから、少しですから、行ってらっしゃいませ」
五年以上も仕えていれば扱いは結構簡単で、琴子はあっさり負けてしまい、ぶつぶつ言いながらも玄関で待っている旦那の元へちゃんと一緒に行ってくれた。
そんなこんなで、多少心の傷を思い返して鬱々としながらも梅子は玄関から見送りを済ませ戻った。
――親戚や関係のあるお偉方との会食を彼女が嫌がっているのは、その中に先だって一方的に梅子との婚約を破棄してきた某氏がいるからなのだと分かっている。
個人的には琴子さまのこの件に対する優しさが嬉しかった。
でもその件を奥さまが持ち出せば旦那さまと喧嘩が始まること必至である。
琴子さまにとって嫌いな人間と会うストレスなんて夫婦喧嘩する大騒ぎに比べれば雀の涙ほどでしかなく、結果的に見れば身重の奥さまにとって行った方がいい結果になるはずなのだった。
門の外から車が二台、遠ざかっていくのが音で分かった。
廊下を歩いて客間の傍で大分老いた養母と立ち話をした。
いくつか繕い物が残っていたので、部屋に戻ってからは秋の深まる庭を眺めて畳に座った。
針に糸を通して仕事を続ける。
隣の部屋の襖が開いた。
足音がして、振り返ろうかというときに肩に何か重いものが乗った。
「よう」
背後から、屋敷の厄介者の次男坊が肩に馴れ馴れしく頭を乗せてきて手元を覗き込んでいた。
梅子は針を持ったまま赤面して固まった。
「こっ、」
「何やってんだよ」
無造作に耳元で息がかかるので手元が狂って針が変なところに刺さった。
背後に感じる体温の温さも心臓を早めるばかりで仕事の邪魔だ。
「仕事、してるの、見て分か」
「なあ梅。暇だ」
「……そ。そうですか。良かったですね」
――ああもう何を言っているんだか。
孝二郎は全くこちらのペースを無視してくれている。
白い意識で混乱しながら梅子は弱りきった。
耳元で少しだけ素直な声が笑いもせずにややあってから答えた。
「ああ。それで、おまえとデートでもしようかと思って来た」
「は?」
思わず間抜けな声を出して横を向くと顔があんまり近くにあったので肘で突き飛ばして離れた。
頭を載せられたせいで着物の肩が少しよれている。
さらに少し離れて針と繕い物をくしゃりと腕に抱えた。
突き飛ばされた方は仏頂面で溜息をつき、そんな彼女をなんともいえない視線でじんと浸した。
梅子はそれで少し心臓を動かした。
「……嫌ならいいわ。仕事してろよ。一人で行く」
「い、嫌だなんて言ってません」
「へぇ」
じっと睨み合い、いや何故この状況で睨み合うのだか彼女にも多分孝二郎にも分からないのだけれどしばらく不毛な冷戦になった。