目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
【WEB拍手おまけログ】
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(二)

そういえば梅子の母親が亡くなったのは今の自分たちの年頃ではなかったろうか。繕い物をしていた後姿に重なる記憶がふと蘇り、孝二郎は庭の端で秋空を見上げた。
雲が出てきたがまだ空の青さは残っている。
なんともいえない気分で足をぶらつかせた。
そして視界の端にデジャヴのようにはにかむ少女を幻のように見た。

『孝二郎君。後で遊ぼう』

「ええと、お待たせしました」
瞬きをする。
正直七年も会っていなくて久々に見た私服の姿は一瞬知らない女のようだった。
不意打ちだったのでとりあえず意味もなく頷いてみた。
門を出てバス停に歩きながら制服ではないこととかに不思議な気分になってみたりもする。
「ああ、あれだ。行きたいところとかあったら言えよ、懐かしいだろこの辺」
「だって随分変わってしまったんじゃないですか?」
梅子はそれでも懐かしそうに眼鏡の奥で笑って、長く続く屋敷の壁を仰いだ。
木々の合い間に建て替えた例の蔵が見えた。

昼前に屋敷を出て、街中までバスで約十分。

いろいろな店に行き、最近ではすっかり行き慣れたよくあるファーストフード店で雑な食事をした。
自分で作ったのでない食事は何でもおいしいと梅子が満足そうに笑った。
平日の昼間だから息が詰まるような人出もない。
どこに行きたいかと聞いたらいきなり動物園、と言われたので連れて行った。

檻の中の動物達を梅子はゆっくりと歩いて珍しそうに見ていた。
タートルネックの長袖に鎖骨辺りまでの黒髪が肩と首の傷を隠していた。
そうして肌を出さない幼馴染を孝二郎は後ろでずっと見ていた。
思いのほかの柔らかみにたびたび疼いたがそれだけでなかったから触れずに距離を取っていた。
風が出てきて、時間はいつでもこういう時にそうであるように、あっという間に過ぎた。

動物園を出てバス停に着く前に雨が降ってきた。

買うのも馬鹿馬鹿しかったので気の利く相手が持っていた折りたたみ傘を背の高い方が持った。
桜色の布を伝って雨が降る。柄が女性用なので恥ずかしくないと言ったら嘘だ。
「持ちましょうか」
「……うっせー」
渋い顔しているのを自覚しつつ孝二郎は濡れる面積をもう少し広げた。二人で入るには小さいのだ。
ぱしゃぱしゃと足音が響きすぐ近くのバス停には人が大勢並んでいた。
座れそうにないので地元ならではのもう少し人の少ない遠回りの路線に乗ることに決め、といっても孝二郎はそのバスに乗るほど庶民ではなかったし梅子も十年以上前使いで数度乗っただけだったので迷った。
知らない区画でもないのに、馬鹿みたいに迷子になった。
秋雨の中で揺れる柿の枝を通り過ぎ、車を避け、引き返そうとして道が分からなくなる。
子供のようだと孝二郎は思った。
梅子を見ると呆れながらも楽しそうだった。だから彼は別に雨でも問題はないような気になんとなくなった。
気ままに三十分ほど迷いに迷って、やっとそれらしき戻り道を見つけた。
見覚えのある柿の木を歩いて過ぎれば、後は大丈夫だった。

安堵して話しかけようとして斜め下を見、孝二郎はようやく足を止めた。

「おい」
見上げてくる頭に後悔が増す。
髪と肩が濡れていた。
自己中だと小さい頃からよく言われていたが確かにそうだと珍しく実感する。
「梅。歩くの辛いか」
梅子が白い顔に少しだけ表情を戻して戸惑いを見せた。
立ち止まったまま、言葉を探すように目を泳がす。
「そんなこと、ありませんけど」
「……嘘ついてんじゃねえよ。あんまり甘やかすな。ただでさえ俺、坊ちゃんなんだからよ」
もう少し何か言い方があったのではないかと思う彼の隣で梅子はただ微かに目元を染めた。
車が徐行で通り過ぎていった。
多分こうしてかつて相手が去っていったのだろうと今更ながらに傘を握って自覚した。
……『気まぐれで口の悪いところ気をつけてください』というのも当然だ。
風が枝々と囁きあう。
「だから。そのな。悪かったよ」
歩調を可能な限り緩めてまた歩き出した。髪が湿っていて秋色の服に、今更ながら肩の丸みとか胸とか胸とか胸とかそういうものは傘の下では近すぎた。
前を具合よく逆方向にバスが過ぎる。
梅子は孝二郎の手を自然のように握った。
見下ろすと、いけませんか。と言って柔らかい指で離そうとしなかった。

いけなくはないがおかげで隣を余計に見られなくなった。


――なぜ今更なのだろう。

梅子はこの前の庭での一連のことからそれをずっと考えていた。

傘の下から、雨だというのに少しだけ空が見えている。
何故今になってなのだろうと合い間合い間にそればかりを思う日だった。

あんなにも諦めていたのだ。
そういうことはありえないと知りながら構わず慕った十六年。
忘れるのは難しくともともかく別の生き方をしようと決めてからの七年。
いくら恋が盲目だといったって、そうして久々に目の前に現れた男の人から真剣に自分をそういう風に見ているだなんて示されても不安になってしまうというものだ。
喩えるなら大好きな何かを見に行く日、雨だというのにバスの中で傘を盗まれてしまったようなもので、それで命を削るほど困るわけではないのに、嬉しさもふとした不安で分からなくなり、手を握って泣きそうになる幸せな波打つ海も、この波が引いていくのではないかと思ってしまったりする。

要は怖いのだ。

優しい孝二郎坊ちゃまなんて坊ちゃまではない、というどこか強迫観念のようなものがあって、もうそういう色恋沙汰はなくていいのだとも先日の一件で思っている。
なのに腕とか体温とか耳を震わせる吐息とかこっそり吸っているらしい煙草の臭いとかそういうものに否応なく芯が反応してしまうことが理由も分からずただ怖い。

つまり、どうしようもなく、今度こそ疑いようもなく刷り込みとか習慣とか関係なしに、拗ねていて素直でなくて不良で口が悪くて自分を何でも知っているあの男性が、好きなのだ。
エンジン音が振動に響く。
バスの外では光が差して雨がやむ。

二人掛けの隣でこちらを見て、背を屈めて自分を呼ぶ幼馴染の坊ちゃまに振り向いて、はい。と言った。
相手の顔がとてもとても嬉しそうだったのでそれで全部の迷いを捨てた。


――気がついたらもう帰りのバスに乗っていた。

手がいつの間にか離れていることを残念に思った。
二人掛けの窓側で梅子がぼんやりガラスに肩を預けている。
暫らく眺めながらいろいろデートの最後に言うべきことを考えてどれにしていいのか思いつかなかったのでひとつだけにした。
軽く背を屈めた。
「梅」
そっけなく呼ぶ。
自分らしくない声だと思いながら振り向く幼馴染をいつものように呼んだ。
成長した女の顔が気安そうに首を向ける。
「楽しかったか」
梅子は孝二郎を見上げたまま、
「はい」
と答えて笑った。
不思議な表情が瞳の色を薄めた。
椅子にもたれると雨粒が窓からヘッドライトで照らされて髪と頬の影が動いた。
バスの中は湿度が高い。
孝二郎は隣の体温に心地よくうつらと目を閉じた。
雨をはじくバスの音に見える外の景色は屋敷の長い壁を遠い先まで見せていた。
家に帰れば待っているといったのに何よと琴子に玄関で八つ当たられて宗一に嫌味を言われて、あとは庭の見える縁側で会話もなしにお茶を飲む。
硝子戸の向こうで池は冷たそうなさざ波で落ち葉を拾い集めていた。
去年と大して代わり映えしない風景だった。

だけれど風は吹き染まり始めた葉は色を増していくそのように、七年が長く短かったように、季節は気を許したが最後矢の速さで過ぎていくのだと苦い経験で知っている。
琴子のお産迄の十ヶ月だけが限られた時間なのであればそれを、あっという間にするほど孝二郎は本来我慢強いわけでもない。

それでも。
それでもそんなに簡単に手を出せるようなことを幼馴染の女中にしてこなかった。

それよりも幾つものぶつけた言葉に替わるような思いつく限りの楽しさや何かで、ゆっくりとでもいいので笑ってこちらを向いてほしかったのだ、情けなくとも格好悪くとも。

だから結構進展は遅かった。
相手がそれを早いとか遅いとかどう思っていたかは知らない。
日常的に意地を張りながら一ヶ月ほど過ごして、それでも雪が降る前には夜に庭で自然に口付けをした。
寒いくせに屋敷から見えない陰に隠れて互いの顔も良く分からないまま庭の隅で長いことした。
初めてではないのに夢中になり唾液で互いの口が濡れていた。
「あのな」
孝二郎が抑えた囁きで弱々しく呟く。
唇が離れかけたままの息の溶け合う距離で、後ろの壁に当てた腕をもう少し曲げて身体を寄せた。
「……もう死んでもいい」
「何変なこと言ってるんですか」
初恋の中学生のように頬を染めている彼女がそういっても説得力がない。
整わない息のまま服に添えていた指を握りこませて縋りつくように額を寄せてきたので抱きしめた。柔らかさとぬくもりに涙が出そうになる。
堪らなくてなんだか本気で泣いてしまいそうだったのでその前に背を上る欲情を押さえ込もうと努力した。数秒もせず無理だということを知った。
また紅の落ちた唇を塞いで短めの舌をすくいあげ唾液を送った。
返してもらえるので嫌ではないのかと少しずつ続ける。
鈴虫がどこか遠くに聴こえる。
帯の上に手を伸ばして膨らみを押えるとしがみつく指先がぎゅうとなる。
肌寒いせいではなく確かな熱で背中がぞくぞくとした。
帯のあたりを苦しそうに捩って梅子が目を細めた。熱心に口を貪るとその奥が潤んで抵抗が減る。下に手を伸ばし、着物越しに隙間をなぞれば腕の中でついに声が出て後れ毛がはらりと落ちた。
夜風が強くなっていた。月が雲から出てきて少し明るくなる。
不意に梅子が抵抗した。
余りに急だったので分からなくなり、やめていいのか迷いつつもやめた。
続けたかったが顔を見て本当にやめた。
気まずくなる。
「嫌か」
また伸びて纏めている長い髪は、とうにほつれてなだらかな肩にかかっていた。
梅子は理由をいわずにただ首に腕を絡めてきて耳の脇で名前を呼んできた。
密着されると、正直、こちらがやめたいと思っていないのがばれるので困ったがとりあえず頭を撫でてみた。
嫌われることをいかに自分が怯えているのかと思うと孝二郎は流石に情けなくて顔を見せないように少しだけ笑った。

中学に入る前ちょうど庭のこの辺で二人で今くらいのことならしていたことを思い出す。
成長の遅かった梅子に当時ほとんど膨らみも丸みもなくただ胸を触っても痛がっただけだったし、ついでに向こうも加減が分からず痛い目にあった。
気まずさとか決まり悪さとか相手が一緒に読んだ本のような反応をしなかったことへの複雑な気分とか、あの頃はそういうものがないまぜになって結局それ以降普通に話さず冷たく当たるようになってしまった。

あれはどんなにか気楽な道だったろうと。
思いながらも惚れた弱みの恐ろしさにたびたびそれからも苦笑する。

何度か同じようなことを繰り返した後に、梅子は問われる前に自分から、肌が傷だらけだから見られたくないのだと言って目の前で泣いた。

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