(三)
関東でも雪は僅かに庭を白くするくらい降るようになっていて、年末が近付いていた。
だからこの寒さの中で後先考えず機嫌に任せて暴れようとする身重の奥さまを気遣えば出来る限り傍にいなくてはならず、本家というところはやっぱり息苦しさが先に立って女中の地位は目に見えて低い。
忙しさもあいまって滅多にここの次男に遊びに連れて行ってもらうこともなくなっていた。
だいぶ琴子さまのお腹は大きくなってきている。注意していると動くのが分かるそうなので、聞かせてもらったけれど分からない。もう少し先になるまで分からないのかもしれない。
昼寝したがる奥さまに毛布を掛け直してあげるとお腹の辺りはやっぱり少しふくらんでいた。眠そうにせがまれたので苦笑しつつ自分の知っている子守り歌を彼女が眠るまで小声で唄う。
寒い日々になった。着物の下の寒さに痛む場所を手のひらで無意識に包む。
ずっと世話をしてきた「お嬢さま」の中に今はお嬢さまではない生命がいるのは不思議で、自分もそうして生まれてきて今こんなに成長したのだと思うと庭がしんしんと鮮やかだった。
あのときに。
この主人を身体ごと守ったときに自分を意識の底で起こし続けた母の子守唄を、聞いたのはどんな自分であったろう。
きっと孝二郎と一緒に同じ部屋で見守られ眠っていたのだろう。
あのように助けられた生命も、孝二郎も、廊下を行き来する使用人たちも自分が守ったお嬢さまも、誰も彼も人の中で大きくなって出てきたものという事実は熱くも傷にしみていく。
「名前をね。どうしようかと思うのよ」
琴子が湯浴みの後で髪を梳かれながら言った。
清助さまは夜まで仕事で居ないものだから梅子が今日は話し相手になっている。
櫛の動きを一旦止めて、梅子は後ろで瞬いた。
「子供のよ。決まってないの、何か良いのは無いかしらってこと」
「旦那さまとは何かご相談されました?」
言葉を返したら不満だったらしく琴子はばしばしと畳をもどかしげに殴った。相変わらず子供のようだ。
また乾いたばかりの髪に櫛を通し、梅子は溜息をついた。
「あの。琴子さま、仰りたいことがおありでしたらどうぞ」
「……何よ相変わらず生意気ね。相談したわよ。だから梅子が考えなさいよ」
「は?」
「おまえにつけてほしいの。おまえがいなければ、この子だって生まれるはずもなかったんだわ。きっと結婚も出来ないままだったわ」
その夜には雪が降るはずだった。
だから夕べから冷え込みが厳しく残った体の痛みにはことさら堪えていた。
梅子は琴子の肩に後ろから額を預けてしばらく腕を回した。
「お礼を言うのが逆よ、逆」
何も言っていないのに琴子は妙に怒ったように顔を赤らめて梅子に反論した。
そんなことがあったからか。
その夜は久々に、時間が取れたので孝二郎のところに行った。
そしてしばらくいろいろな話をした後、当たり前のように口付けながら頭がぼうっとしてくると押えていた気持ちも溢れてしまった。
気がついたら苛立ったように何度か名前を呼ばれていて、唇が離れていて視界がぼやけていた。
意識もしないで泣いていた。
眼鏡が邪魔だ。外して涙を拭いたけれど溢れて顔を覆った。
呼ばれるだけで胸の震える声がする。
「梅」
苛立ったような声も本当はそうでないのだと知っていたからその素直でない気遣いに余計に涙が出て喉が掠れた。
小さい頃みたいに声も抑えず泣き続けた。
そう怖かったのは孝二郎の気まぐれとかそんな慣れきったものよりも、小さな頃と一番違っている自分の身体だった。
別にこの傷が嫌ではなかったのだ。
誇りでもあった。
後悔だってしていない。
ああでも。
怪我も病気も避けえることはできないものだけれどそれでも、何故自分に来てしまったのだろうとだけ思う。
日常には慣れても肌を見せるのはもっともっと別のことだった。
――唇を塞がれていて、それで泣き声がこぼれなくなって涙だけがただ伝った。
何度も宥めるようにそうされて、落ち着いてくると今度は悲しさだけが残った。
ひどく寒さが身にしみる。
古い灯りの下で孝二郎を見上げるとまた口付けられて目を閉じた。
少しして離れたので薄目を開ける。……首筋に息がかかった。
「や、」
「そういうことならな、余計見たいに決まってんだろ」
孝二郎が顎の脇で不機嫌そうに言う。
梅子は腹を立てて良いのかどうしていいのか分からなくなった。
「それで嫌になったりしねーくらいには好きだ」
「だって、でも」
「もういい脱げ」
「ぬ、脱げってちょっと」
抵抗しかけて。
諦めた。
「……今の、命令ですか」
「頼んでんだよ馬鹿」
孝二郎は相変わらず素直でない表情をしていた。