(二)
出るとき蹴り飛ばしていたらしく、散乱していた中身を鞄に詰めなおす。
開いた詩集を機械的に拾って閉じて、足元の電話を探した。
液晶画面に叔母の片割れから不在着信が残っている。
いつも何を考えているのか分からない親戚が泣いていたので孝二郎は自分のことは言わずに聞いた。
電車待ちの駅でかけなおすと、彼女の姉と未だ十六の女中二人が行方不明で、おそらく土砂で半壊した古屋敷のどこかに生き埋めだろうと間違いでなければ聴こえた。
孝二郎は灯りに光る雨を見る。
『家出なんかしている場合じゃないと思う。どこにいるの。孝二郎』
「函館」
『冗談面白くない』
「冗談でこんなこと言わねー」
妙に冷静にそう呟き駅構内の時計を探した。
飛行機は便が少なく明日の発着も不確かで、むしろ電車で夜を徹して乗り継いで帰れば 午前中には着くかもしれない、と健雄は言った。
夜になれば人は減り、駅舎も静かになってくる。
「出来るだけ早く帰るから」
『梅子が死んだらどうするつもり』
一番聞きたくないことを不意に言われてたまらずその場で電話を切った。
切ってしまった手を見つめていると力が抜ける。
座り込まないように息を詰めた。
旅行中らしい若いカップルが腕を組みぶつかりかけて避けていった。
ベンチに戻ると、眠る染井を肩によりかからせたままで健雄が親のような顔で笑った。
「泣くな」
「泣いてねぇよ」
「どうせお嬢ちゃんを泣かすんだからよ」
気を紛らわす冗談だと知っていたので黙って座る。
電車がさっさと来ないことに苛立ちを覚えながら孝二郎は頭を抱えるようにして春海の泣き声を振り払いかけた。
湿った風がひどくぬるい。
梅子が死んだらどうするつもり。
「……知るかよ」
口で呟くと額を押す。
感覚がなくなるように痛いくらいに押した。
「よく分からんが無事だ。無事だから泣くな」
今度は心底労わるように低い声が右上から囁いて孝二郎は不覚にも泣いた。
そうしてどこの店に入るでもなく食糧補給だけを駅で済ませて午前三時の電車で眠る。
何かを聴いたような夢を見て、染井が目を醒まして身体を起こした。
深夜の寝台列車は暗いし寂しい。
枕も固すぎるし毛布は薄いし、知らない人が多くて落ち着かない。
波打った髪を弄っていると仕切りのカーテン越しに声がかかった。
「なんだ。寝とけ」
「ん……」
骨のある囁きは彼氏のものではない。
ポニーテールをほどいたゴムが、手首に少し食い込んでいる。
カーペットにまた横たわると周囲の寝息が聞こえた。
ごうごうと嵐のようにうるさいのはきっと青函トンネルを通過しているのだろう。
腕時計の秒針がチクチク鳴る音を聞いているうちに、知らないおじさんもまた寝入ってしまったようなので天井だけを見た。
間もなく今度は別の側が、染井を呼んだ。
意地悪をして目を瞑ろうかと考えてやっぱりやめる。
「なあに、こーちゃん」
周囲に失礼にならないように、まあ、囁き声というやつだ。
有野家のお嬢さまともあろうものが寝台列車で、こんな雑魚寝でいるなんて爺やはきっと泣くだろう。
「染井」
「うん。だからなあに」
「ありがとうな」
背中でガタンガタンと微かに揺れて、規則正しく電車が走る。
染井は男の子と付き合うのが実は初めてではなかったし、まあかといって経験豊富というわけでは全くなくて子供のようなものではあったのだけれど、それでも充分なだけの理解はあった。
私はこの人が好きなんだろうなぁ。と思ってそれは哀しいことだと同時に知っていく。
「うん」
囁き返して睫毛を下ろす。
別に孝二郎ではなくても同じように好きにはなれたろう。
たまたま一番仲の良かった男子の手を取ったら、孝二郎だったというだけだ。
それでも一緒に休み時間に学食を取ったり中庭を歩いたり、腕を組んだりするのが楽しかったのだ。
トンネルの中には雨が降らない。
トンネルを抜ければ夏の日の出は早いから、もう空は明るいのかもしれない。
でも、トンネルを抜けたって雨の日は雨だ。
だったらもう少しだけ雨じゃない場所で、眠らずにいようと染井は思った。
それに決め付けて諦めることもない。
――人生山あり谷ありなのだから、次にぶつかったら乗り越えるそれだけのことだ。
両の脇から寝息がまた、聴こえて電車のリズムに消える。
孝二郎は僅かな眠りに夢を見た。
揺りかごの歌を、
薄い月夜に窓はがたぴしと涼しい風で鳴っていた。
カナリヤが歌うよ。
手の触れ合う先ぬくもりがあたたかい。
『坊ちゃま、あら、起きてしまったの。仕方がないわね』
覗き込まれると影ができる。
歌うのをやめて縁のない眼鏡をかけたふっくらとした女が、手を寄せて笑った。
『梅子はいったん寝たら起きないのに。では坊ちゃま、子守り歌を』
月が黒い影に被さって見えなくなった。
ふくよかな肢体が二人を抱きしめるようにして揺りかごを覗き込むと紅の唇が震えた。
すぐ傍で眠る誰かのぬくもりが暖かい。
揺り籠の歌が聞こえる。
――梅子は子守り歌が遠ざかるとともに瓦礫の下で睫毛を微かに震わした。