目次

春の花、揺り籠を聴く

本編
序章
一章『カナリヤ』
二章『枇杷の実』
三章『木ねずみ』
四章『黄色い月』
終章『揺り籠のうたを』
番外編
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(五)

――こういうことって、したらきもちがいいものなの?

敬語を使うことにも慣れていなかった時分に裏手で見つけた十八禁の雑誌を、秘密基地に持ち込んで幼馴染と読み耽った。
「秘密基地」は蜘蛛の巣だらけの古びた土蔵(よく髪を引っ掛けては養父母に怒られたものだ)で、表には鍵がかかっていたけれど、裏手の穴から潜り込むことができたのだった。
薄暗い奥手の一角には光が上手く入り込む作りになっていて、黄昏時に見たその雑誌は意味も分からず幼い記憶に焼きついた。
無知なりにどきどきして、むずむずと背中の裏が落ち着かなかった。
……あまりに、女の人が「きもちいい」と言っているものだから。

――こういうことって、

幼馴染の少年を捕まえて聞いてみた。
少年は分からないのが嫌らしかった。
桜の終わる頃、夕陽の暮れる蔵の奥でひそひそ声を交わしながら。
お互いに真似しようと試してみたり、いろいろしたのだけれどよく分からずに上手くいかなかった後。
妙によそよそしくなった遊び相手は梅子を見ないで、しらねえばか。と逃げてそれきりなかなか遊んでくれなくなった。
仕方がないからまじめに養母の手伝いとして家のことを細々するようになる。
『孝二郎君』は、「良い家」のお友達とばかり遊ぶようになっていき、梅子は日に日に下働きになった。
段々と昔みたいに怒鳴りあいの喧嘩をしなくなり、説教と生返事に日常がゆるりゆるりと裏返る。

子守り歌さえ一緒の毛布で歌われた日々を、遠くの道に葬り去っていくように。


ガラスを打ちつけはじめた激しい雨に顔を映して梅子は使用人控え室から腰を上げた。古びたテレビが、『台風十三号、関東上陸』についてしきりにアナウンスしている。
どうやらこのところなかった規模の台風らしかったので、大事をとって蔵の整理は明日に回した。
予定がなくなると大分暇が出来たので見ていたテレビも台風情報ばかりだった。
時計を見るともう遅い。
本家と違って田舎のこちらは、夜も朝も幾分早い。
そろそろ寝なくてはいけないので、お嬢さまに挨拶に行く必要があった。
小さな屋敷とはいえ庭は立派なものだから、枝打つ音も普通の家より激しいようだ。

春海不在で薄暗い西側の廊下を歩くと湿りのせいか変に軋んだ。
窓の外が一瞬明るくなったので稲妻なのかと顔を向ける。
と、玄関先の黒電話が鳴り始めた。
「こんな夜中に。」
心配をした春海お嬢さまが素直じゃない電話でも掛けてきたのかなあ、と瞬きをして廊下を曲がる。
鈍く鳴り続ける電話にかぶって風がガタガタと不穏に唸った。ちょうど厨房から顔を出したところだった老僕の坂木氏を横目におさめつつ、受話器に指を絡めて応える。

「――はい。もしもし」
『………っ、』

雨粒が強く硝子を叩き続けた。
電話向こうで誰か名乗りもしない相手が息を呑んだ。

梅子は自分でも気付く前に電話を切っていた。
誰からの電話だかは今のだけで分かった。
直前。
轟音が屋敷裏から空気を揺らした。
坂木氏が、電話を切ったのを見計らって梅子に駆け寄り、何故ここにいるのかと焦って尋ねてきた。
その言葉も今の一呼吸の後では鼓動に紛れてただ遠い。
でも、なんだか大事なことを言っていたような気がした。
皺だらけの口元を見ながら、眼鏡の奥を揺らして朦朧と聞き返す。
「はぁ。え、はい……?」

「いえ、だからねえ。お嬢さまが今さっき懐中電灯もって、お蔵に梅子さん呼びに行ったんですわ。止めたんですが」

数秒しなければ理解が出来なかった。
先程暗闇の奥に光った何かが、じわじわと思い出されて目の奥を真っ白にする。
もう何から何まで分からないことばかりだ。
水溜りの地面みたいにぐちゃぐちゃになる。
尋ね返す声が震えた。
「つ……まり、帰ってきて、ないんですか」
「だから、梅子さんは知らないのですか」

――『私はお風呂を入れてその後でお蔵に掃除に行くんです。』

手が無意識に口を覆う。

――お山も崩れないとも限りませんし

「あぁ待ちなされ、すぐ男手呼びますからというに――!」
踵を返して裏口のたたきに飛び込むように庭に出ると眼鏡を雨が覆って何も見えなくなった。
戸を開け放したままで坂木さんの呼び声もすぐに聞こえなくなった。
身体で覚えた石の道を辿って裏庭の土蔵に向け走る。
屋敷のぼんやりした明かりだけが足元をほんの僅かだけ照らしていた。
暗い山の形はいつもとどこか違い高くもないのにただ聳えて威圧していた。
土蔵には長い時間のようで実質たいして時間もかけずに着いた。
……崩れてはいなかった。
「……ぁ、よかった」
体中で安堵して、力が抜けそうになる。
軽く手を翳して顔をあげ、見えもしない裏山を暫し仰ぐ。
雨はそれでも容赦がない。
別のところが崩れたのならここも安全とはいえないのだ。避難しなければ。

石段を上がって半開きの扉をくぐった。
眼鏡を外して水滴を払い、濡れた着物で息をつく。
頬に伝う水をぬぐうけれど雨が髪も濡らしていたのですぐに滴って意味をなくす。
くすんだ匂いの古い土蔵は、衝撃ひとつで今にも朽ちてしまいそうだった。
最近春海も来なくて掃除していなかったから、思っていたより埃が厚い。
息を吸って、呼び声に換える。
「お嬢さま。お嬢さま!」
闇は動かずしんとしていた。
何も答がない。
汗が冷たくなる。
なんで、なんで向坂の血が流れる人達は我侭で仕方がなくて素直でなくて、こんなに困らせてくれるのだろう。
心配してくれるなら素直に言って欲しい。
幸せになって欲しいならきちんと言って欲しい。
嫌いなら嫌いと、言ってくれればもっと早くに諦めだってついたのに。

唇を噛んで嫌な不安を払う。
蜘蛛の巣を払いながら奥の方に足を進めるたび濡れた衣服がべとりと冷たかった。
「琴子さま、いないんですか? お嬢さま! 梅子は無事ですから、早く戻りましょう――」
張り上げた声が雨風にかき消された。
どこかでごそりと音がするのがそれでも女中の耳には確かに届いた。
かちりと、懐中電灯が右の斜め後ろあたりでつく。
濡れ鼠のままで、振り返ると、うずくまったままの長い髪の女性が物陰で見上げていた。
視線がゆっくりと合い、交じりあう。
安堵のあまり梅子も腰が抜けてへたりと膝を折った。
「……琴子さま」
「なによ。どこにいたわけ」
「すみません」
琴子の方も女中ほどではないが濡れていて、そのせいか別の理由か震えていた。
髪から落ちた水滴を振り落として眼鏡をまたかけなおし、梅子がそれを確認してやっと少しだけ笑う。
「怖かったんですか」
「違うわよ」
「はいはいそうですか、大丈夫ですから帰りましょう。風邪引きま」
――もう一度、先程より大きく山鳴りがして空気が激しく轟音の下で揺れた。
今度は背中のすぐ脇で埃が舞い上がりかなり近くで物が勢いよく落ちて盛大に割れた。
泥の臭いに風が混じり、聞こえなくなった耳に瓦礫と砂が落ちてくる。
断続的な痛みと豪雨に混じって揺り籠の歌が聴こえた。


 揺籠の歌を、カナリヤが歌ふよ。

 揺籠のうへに、枇杷の実が揺れる、よ。

 揺籠のつなを、木ねずみが揺する、よ。

 揺籠のゆめに、黄色い月がかかる、よ。

 ねんねこ、ねんねこ、ねんねこ、よ。


同じ頃、孝二郎が白秋の黄ばんだ詩集をぱさりと閉じた。

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