第一章 / わたしが千里と出会う
1
夏が終わる。
澄んだ空は高く、風は穏やかで乾いている。わたしは薄暗い体育倉庫の隅っこに、うつろな気持ちで立ち尽くしていた。
小窓をカタカタと揺らして隙間風が吹いている。
携帯端末を覗いてから、電源を長押しで落とす。別れよう別れよう別れよう。メールの文面がまぶたの裏でリフレインする。
振られた。
夏のはじめに告白されて、半分は好奇心、半分は別の理由からクラスメイトと付き合って。夏休み中にからだだけ貰われて、新学期もそこそこに、歯切れも悪くメールひとつで捨てられた。
馬鹿みたいな夏だった。
もっと、言うべきことがあるはずなのに相手を責められないのは、わたしも嘘をついていたからだ。ため息だけで涙が滲みもしないのは、わたしが彼のことを好きでもなんでもなかったからだ。薄い笑みさえ浮かんでしまう。
叶わない胸の痛みを忘れようと崖から勇気を出して踏み出して、予想通りに落ちただけ。
校舎の屋上から吹きおりる風は夏のじめじめした湿気をまとうことがなくなって。秋に届かず置き去りにされたなにかがここに、わたしの足元にだけは残っているようだった。
不安定な跳び箱に背を預けると、まっすぐな黒髪が腰まわりにさらり流れた。
――綺麗な髪だね。癖っ毛だから羨ましいよ。
胸に残る素っ気ないアルトの調べを忘れたくて無理をしたのに、未熟なからだが男を知っても、ひと夏過ぎても忘れるなんて無理だった。
淡い西日がくすみ汚れた小窓から、影を複雑に伸ばして漆喰を照らす。靴裏で擦ったコンクリートに砂汚れが舞った。
少子化の波、というやつなのだろう。高度成長期に創設された我が校には、校舎にも付属施設にも持て余した過剰な空間があちらこちら残されている。この倉庫も、二十年前には現役だったのだろうけれど、もはや「倉庫」とは名ばかりの、打ち捨てられたゴミ箱だ。もしかしたら先輩も、わたしに知らせずここを捨ててしまったのかもしれない。
思ってから、一呼吸遅れて、胸をつかれた。
……そうだとしても。責める資格なんてない。先輩への想いを忘れようとして逃げた、わたしにはない。鼻の奥にこみ上げてきた感情を振り切って瞬きをする。考えてはだめだ。
いつまでもここにいることは許されない。まだ生徒会の仕事がある。文化祭も近いのだ。腫れた目で生徒会室に戻る訳にはいかない。
日が落ちる前にここを出よう。
と。強いて立ち去る決意をした瞬間、急に、足の裏が揺れた。
倉庫隅にあるバスケットボールの籠が小刻みに震え始め、目を向けようとするその前に窓枠がカタカタと波打ち出した。
「地震?」
気のせいかと思い足元に意識を集中すると、やはりガタガタと徐々に大きく揺れている。やっぱり地震だ。慌てて脇の跳び箱に縋り、天井を見まわす。その間にも揺れは大きくなり、不意に目の前がぐらり、と歪んだ。
思わずぎゅっと目を瞑り、跳び箱を抱いた。まぶた越しに白い光が滲む。肩をこわばらせ、しゃがみこもうとする直前、あれほど大きかった揺れがピタリとおさまった。
「………?」
おそるおそる、薄目を開く。ボールひとつ落ちていない。吊り下げられた紐を仰いでも揺れている様子もない。遠く漏れ聞こえてくる体育館の歓声も前と変わらず、倉庫の薄暗さはしんと漂ったままだった。
気のせい、だったのだろうか。息をつきながらあたりを見回して、わたしは一瞬目を疑って、……それから、小さく叫び声を上げた。隅に積まれたマットの上で、今まで明らかに存在しなかった真白いなにかが、眩い光を放っていた。
華やかな布の塊ににたそれは、次第に輝きを失って薄闇色に溶け込むにつれて、やがて着物姿の少女、としか思えないシルエットになっていった。
それだけならまだしも。なんというか、その。
実に信じがたいことに……、柔らかな髪からは、大きな三角形の耳がふたつ、先端だけを垂れさせて、ぴょこんと突き出ていたのだった。