第九章 / わたしは千里にご褒美をあげる
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その後。
千里が「トイレ」を理解しなかったので、もう少し直接的な言葉で説明させられる羽目になった。同じ横文字でも、行為が先にきた「キス」とは、解説の恥ずかしさも難しさも比べ物にならない。もうだめだ。穴があったら入りたい。というか今さらだけどなんで獣の千里と普通に言葉が通じているのか、わたしはもう少し疑問を持つべきじゃないんだろうか。……異界の生き物と、肌を交わしてべたべたしようとしているわたしが、今そんなこと考えてもしかたがない。と自分の状況を思い返して思考を放棄。「洗濯」や「食事」と同じようなものだろう。わからないことは考えない。それが大事。
しとしと雨を振り捨てて、折りたたみ傘の柄を引きたたむ。
半端に留めて、壁に寄せ掛けて置く。部室棟のトイレには誰もいなかったけれど、人目を気にしての用足しはどきどきした。特にスカートの内側が、こんなことになっている場合には。
腕時計の数字は十時二分と三秒すぎ。部室棟も水飲み場も、別の学校みたいにしんとしている。枝向こうの体育館から、葉をたたく水音に紛れてボールの音と掛け声が届くだけ。生徒会への届け出によれば、文化祭の準備で登校する部もあったはずだけれど――運動部には関係ないのかも。どうだったろう。
どのみち今のわたしは、「生徒会役員」から遠く離れた道にいる。スカートの中が冷たい。けれどもそれが嫌じゃない。替えの下着がもうないことに安心するくらい、おそろしくだめな場所にいる。
雨樋から地面に注ぐ水がこぷこぷとうねり、湿る土に踵が沈む。
秋が更けていずれ枯れ葉になるのだろうに、頭上の木々も雑草たちも水を得て歓喜していた。九月の終わりは、去りがたい夏が未練を残して笑うから、こんなにも虚しいのかもしれない。
わたしも草木と同じ。寂しいときが必ず来るのに、目の前のおいしいものにだけ飛びついて。濡れればあさましく歓喜して。火照ったからだは熱いままで、吐息が浅くなって、倉庫に近づくほどに犬のことしか考えられない。続き、したい。キスの続き。食べるためじゃないキスのことをもっと千里に覚えこませて、その先までも教えたい。
傘をたたんで金属扉に手をかけて、横に引こうと力を込める。離れていた時間は五分ほどだったと思うけど、また寝ていたりしないだろうか。……と、そこまで考えて。不意に好奇心と悪戯心が、扉を開ける手を止めた。
こういうとき、千里はおとなしくわたしの言いつけを守って待っているんだろうか。
早まる鼓動に、まばたきが増える。改めて音を立てないように注意して、ゆっくりと慎重に片方だけの扉を動かす。息を詰めて、そうっと、静かに。指一本くらいの僅かな隙間ができたところで顔を寄せ、薄暗い中を覗き見る。昔話にいる「だめと言われたのについ覗いてしまった」人たちって、今のわたしみたいな気持ちだったのかもしれない。
昼近くでも、屋外に比べれば倉庫の奥は薄暗い。障害物も多く、目が慣れるまでには少しかかった。
埃っぽいマットが七枚積まれた、壁際にいた。表情まではわからない。わたしから見て斜め左にからだを向けて、膝を割開いてぺたんとお尻をついている。ふかふかの尻尾は垂れていて、前に置かれた両手にはどちらも白い紐が握られている。よく見れば、千里が握っているそれは、ふんどしの紐だった。俯く横顔が異国の呪文を口ずさみ、膝上の布がポッと光る。
どくん。と心臓が跳ねた。
千里が、洗濯、してる。
それは……、わたしが席を外した十分足らずの間に、下着を綺麗にしなくちゃいけないことをしてたっていう、ことだ。わたしのキスで反応したあれを、処理……して、いたんだ。
呼吸が熱をもち、扉に添えた指が震える。どうしよう。嬉しい。でも、出しちゃったってことは、もうしばらく続きは無理だろうか。それに、ふんどしも付け直していつもみたいに紐を結んで、元のように身支度してる。羽織の襟元をぱっぱと払ってあちこち確認して、膝頭をぴたりと閉じて正座して、きょろきょろあたりを見回して。いい子で動かず待っていた風に装ってる。膝がそわそわ挙動不審なあたり、詰めが甘い。可愛い。バレバレの悪戯を隠す子どもみたいで堪らない。あの無防備な頭を撫でたい。いやそうじゃなくて、ええとまあ、とりあえず気がつかないふりをしたほうがいいだろう。わたしの立場だったら、絶対に見ないふりをしてほしいと思うし。
とりあえず……もう入って行っちゃっていい、よね。
深呼吸して扉の隙間をこじ開けようと手を出しかけたときだった。不意に中から、
「あっ」
戸惑った悲鳴がしたので慌てて腕を引っ込めた。
ひと呼吸、耳を澄ませてから、おそるおそる隙間に顔を寄せる。気づかれたわけではなさそうだ。千里はまだこちらを見ていない。見ているのは、膝と膝との、間。両足の付け根、雄の器官があるところ。
「あれ……あれ? なんでぼく今……熱、出した、のに」
扉越しに雨に邪魔されて聴き取りづらいはずなのに、耳に心地良いアルトは、躊躇いがちに鼓膜を揺らす。
「もう悪い熱、こもっちゃってる……だ、出さなきゃ、カオカさま戻ってくる前に、出さな、きゃ……」
飾り紐を解き、束ね、続いて締めたばかりの下着の紐を解き始める。不器用に、でも手慣れたやり方で。ときたま手を止めてはぴくっと顎を仰け反らせて小さく喘ぐ。
「あっ……、ぁ、あっ」
それに合わせて外しかけの前垂れもびくびくと動く。
しばらく耐えて、それからまた、ゆっくりと手を動かして、紐を解き終えて――ようやくはらり落ちた布がものを隠せなくなった頃には、わたしも呼吸のしかたを忘れていた。
そして千里は、激しく自身を慰め始めた。