第七章 / わたしは「おあずけ」と「よし」を教える
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コップを取り落としたまま固まっていた千里は、みるみるうちに震えはじめた。目尻に涙が滲んでいる。
「ね、千里、ちゃんと話して。わたしに言ってないこと、あるよね」
「あのあの、き、訊かないでください。お願いです、カオカさま、ぼくあのっ、」
千里は青ざめて腰を浮かせ、必死に首を振った。そんな動きすら緩慢だから、抱いた確信はいよいよ深まり力がこもる。
「だめだよ」
反射的に言い返してから、一拍遅れて驚いた。
わたし、こんなことを言えるんだ。
頬が熱くなり、心臓がばくばくいい始めた。喉が渇く。無意識だった。でも言えた。
そうだ。少し考えて、遠ざかろうとする千里の手首を掴んでぐっと握る。拒否してもいいと言ったのは、目の前のこの子だ。
「言いたいことがないなら、このまま帰っちゃうよ。それで、二度と来ないよ」
うっ……としゃくりあげ、ぽろぽろと真珠のような涙をこぼす千里。罪悪感と、少しの動揺が、マーブル状に熱を帯びて胸を焦がす。嘘だよ。わたしだってそんなことはしたくない。でもそう言ってあげるわけにはいかない。
今度は意識的にはっきりと、首を横に振った。
「だめ。ちゃんと教えて。なにが必要なのか、ちゃんと言って」
憧れた先輩の真似をしているだけかもしれない。どんな注意も忠告にも、さらりと笑って颯爽と、立ち去る背中に憧れた。ああ、いいな。わたしも冬子先輩みたいに、はっきりと人の目を見て恐れずに、自分の気持ちを言ってみたいな。……そう、ずっと思っていたのだから。
「わたしに従うって、言っていたのは嘘なの? そうじゃないよね」
手首を押さえた手の甲に、もう片方の指も重ねて真正面から瞳を覗く。涙と暗がりでぼやけているだろうわたしの表情がよく見えるよう、息の混じる距離まで顔を寄せ、静かにゆっくり話しかける。
「だから言うだけ言ってみて。わたしにできることがあればそれも教えて。難しいならそう言うし、代わりの方法だってちゃんと一緒に考えるから――」
ぐううううぅ。
突然、蛙が鳴いたような間抜けな音が響き渡った。虚をつかれて言葉を失う。
もしやと千里の様子を窺うと、……全身がわかりやすく紅潮している。耳を下向け、白い絹肌からぷしゅううと湯気が立つような羞恥で、瞳をめいっぱい潤ませて。そんな状態で、おそるおそるわたしのことを見つめ返してくる様子が、
思わず、すべてを忘れて見惚れるほど可愛い。
って、いや、いやいや違う。それどころじゃなかった。落ち着けわたし。
「ほら、やっぱりお腹すいてる」
はっきり告げると、千里はますます赤くなり、悔いるように唇を結んだ。なにを隠しているのかわからない。だから、途切れた言葉をまた続ける。
「食事してないんだよね。いつから? それで顔色が悪いんでしょう」
そして、このあとは――完全な推測だけれど、さして間違っているとは思えない。震えないように、ゆっくりと、不安を見せずに伝えるしかない。
「本当は……本当は、毎日、キスしなくちゃいけないの? 」
「えっ、ぅ……、あっ、――う」
黒硝子の瞳が大きく見開かれて両耳はピンと立ち、酸素を欲するように濡れた唇の奥が喘ぐ。物欲しそうにまたお腹の虫が派手に泣く。
千里はますます恥ずかしそうに顎を引き、ぎゅっと目を瞑った。涎がつうと唇の隙間から伝う。お腹の音は止まらない。
わたしは心のなかで頷いた。ここまで一度も、千里は違うと言わなかった。だからきっと推測は大筋で合っている。
どうやらパンやごはんじゃ、犬みたいな不思議なこの子は、空腹を満たせていないらしい。初めて出会ったときに、「いただきます」と告げてすぐに唇にむしゃぶりつかれたあれこそが、――彼の、食事だったのだ。
「ほら。目、開けて。……千里」
手首を放した両手で、薔薇色の頬を挟む。うう手触りすべすべ羨ましい。涙の湿り気がなければ、きっともっと肌触りがいいんだろうなぁ。スキンケアなんてしてないだろうに、ずるい。
「カオカ、さま?」
囁かれて我に返った。邪念にとらわれていた。いけないいけない。瞬きすると、おそるおそる薄目を開けたらしい千里が、これまでになかったようなおかしな熱っぽさでそっとわたしを見つめていた。まろやかな頬は生温かい。倉庫の壁と屋根を叩く秋雨の、薄暗闇にふさふさの尻尾もあわせて暖かそうに揺れている。
「あ……の、あの、でも、カオカさまが…」
「もしわたしが、最初に嫌がったこと気にしてるなら、もういいよ。嫌じゃないから、食べていいよ」
まさかそんなことだったとしたら、おかしい。嫌われるのが怖いんです、と困ったように微笑んでいたこの子は確かに、わたしにどこか似ているのかもしれない。他人事のようにそう思った。
白い首筋に無骨な喉仏が一度、大きく上下して、すぐにわたしの頬も細い指で優しく挟まれて獣くさいにおいに文字通り食べられるように、距離を縮めた半開きの唇同士が触れ合い……かけて、互いの吐息だけが触れて止まった。薄目を開けて千里を見返す。
獣のにおいをさせた少年は、わたしの疑念を受け止めてそっと微笑み、礼のように目を一度伏せると囁いた。
「いただきます、カオカさま」
と同時に今度こそ半開きの唇が噛み合わされた。不意打ちのようにじゅ、と唾液をあからさまに吸われて、背が痺れる。
「んっ……ぅ、んっ、ぁ」
キスではなくて、食事だと、わかっていても千里の舌はなにかいやらしい。何度も口の奥を吸うようにしては、食べたばかりのお弁当を口からもらうみたいに歯の間を探して、懸命に肉厚の舌先でわたしの舌の表面を塗りつぶし、また唾液を吸い上げては、唇を閉じさせて食む。ただ丁寧に、椀の蓋を開けて、汁物を啜り、箸で摘まんだ蒸し鶏を口に運び、茶碗を手にとり、唾液で白米のでんぷんを消化して。そんな風に扱われて、いるのが……わかる。ぞくぞくと、手と足の爪一本一本の先に炎が灯っていくようなもどかしい快感。
「んっ……、ふ、ぁ,……ぁっんむ、んぁ、ふ……ぁ」
屋根を打つ雨音を、肌を誘う水のにおいを、自分で自分の気持ちも言葉もよくわかっていないままに、ただ聴き流して身を委ねる。髪に指先が潜り込むだけでくたりと力が抜ける。それでも捕食されたくないという本能なのか、不意に身を捩って逃げようとしたくなる衝動も襲ってきたりして、だけどたいした抵抗もできなくて。怖いくらい唾液も溢れてきて。なんだろう。……なんだろう、これ。
朦朧としたまま震えて終わるのを待っていると、唾液が下唇の上から糸を引いた。うん、……終わりかな。今まで帰り際にしていたのはやっぱり、遠慮していたらしい。なんだかすごくて、驚いた。
と、ほっとしたのも束の間、またすぐに、たおやかな汗ばんだ手が顎に触れる。
「ぇ……? あの、せ……」
唇を淫蕩に綻ばせて、吐息が近づく。反射的にそらして遠ざけようとした頭を優しい手つきで有無を言わせず抱え込み、礼儀正しくつぶやいて。
「いただきます……」
「うそ、や、んっ――」
思わずこぼれた拒絶の言葉は届かなかったらしい。尻尾が嬉しそうに揺れている。無心にかぶりつく表情は至福で、なにも彼を邪魔することができないと思い知らされる。
とろ火で炙られるような快感にもどかしく流されながら、何度も認識の甘さを悔いる。
……この子は、ほんとうに獣だ。
人のような姿をしているだけ。わかっていたつもりだった。でもそれは本当に「つもり」でしかなかった。「犬っぽい」んじゃなくて、そうじゃなくて。鼻をつくにおいが、捕食の目つきが、紛れもなくわたしにじゃれついて忠義のご褒美を欲しがっている貪欲な獣そのものだ。
唇をぺろぺろと舐められる。瞳が黒々と薄い光を呑み込んで燃えている。そんなに舐ったらリップクリーム、取れちゃって……、うん、でも、しょうがないな、また塗れば……、そろそろ、これ、……多分もう、終わる、し。
予感の通り、さっき離れた時と同じように唇のふちを何度かちろちろと優しく舐められてから、千里はゆっくりとわたしを解放して、ほうっと息をついて微笑んだ。
「ん、ふぁ………、ぁ」
息が苦しい。けれど離れて、ようやく終わりなのかと思えばその瞬間にまた、千里はそっと呟いている。嬉しそうに和毛の耳を上下させて、極上の一皿を目の前にした礼儀正しさで。
「いただきます、カオカさま」
「えぇっちょ、も、やっ、やだぁ…ぁ、むぁ、んむ、ふぁー、ぁ」
ぞわりと、腰が震えた。熱い。顔が耳まで熱い。薄着なのに、肌寒いはずなのに、息があがっている。どこも触られていないのに、もどかしさだけが膨れあがって行き場をなくしてふとももの奥がわなないている。
そう、こんなに、勝手にびくびくしてるのに、どこも触ってもらえて、ない。ずっとキスだけ。食べられてるんだから、お皿はなにもさせてもらえない。でも、でも、なんか、これ、……ぁ、あれ。
何度目だろう。遠ざかるナイフとフォーク。
そしてまた、丁寧な作法で繰り返される「食事」。
そうやって……どれだけ、続いていたんだろう。差し込む光は淡くなって、肌を撫ぜる空気が少し気温を下げて、汗まみれのわたしが何度目かにいった頃に。
「……ご馳走様でした」
長い長い千里の食事は、ようやく終わったらしかった。