第十一章 / わたしは千里に甘噛みを許す
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「知ってる? 夜の踏切ってさ、変に怖いんだ。真っ暗な山道のカーブを抜けると、ヘッドライトに反射して、黒と黄色の『ばつ』印がくっきり見える。それで、……ああ踏切なんだ、電車がここを通ってるんだ、って気がつくんだよね。ばつ、のかたちがぽっかり浮かび上がってるのを、助手席から見るとね。なんだか、気分が沈んでいる時に父の隣でそういうの見せられるとさ、細い外れ道ですら、あたしは通れないんだなって気持ちになる」
むき出しの白い膝頭。マットの縫い目、青い影。
「冬子先輩?」
うたた寝に優しい歌を聴いたようで目を覚ましたわたしに、薄く微笑む紅い唇。
「おはよ、香緒花」
床に落とした乾いた血の痕を拭うように、先輩は素知らぬ顔で重なる肩を叩いてくれる。もたれて眠ってしまったくらいのことで、恥じ入るわたしがおかしいと笑う。脆い仮面を外した優等生が、つかのま呼吸を許される、記憶の水底、やわい砂を踏んだ想いの足跡が、体育倉庫の床を掃く。
夢の温もりは、ふやけるように広がり薄れ、徐々に腰の熱さに取って代わられた。かすかな水音。息づかい。
獣の舌が頬を這う。
……なんだか。すごく、気持ち、い……いのに、息苦しい。
舌の付け根あたりを塞がれている。鼻腔へ押しこまれて否応なしに背を撫でまわす獣のにおい、湿り気のある粘こい肉舌。
「んっ……、ぁ、ふっ、んンッ!?」
半覚醒の意識が急に、快感に急き立てられて目を醒ます。同時に唾液が喉を滑り、こぷんと奥から蜜が湧きでる。
なにが起こっているのか、頭で理解するよりからだが先に思い出して、すべてを差し出す支度をするよう忙しなく波打ち蠢き、喉が鳴る。
「っ……っう、んぁ…せ、んっ、りッ」
目の前にあるのは長い赤みがかかった睫毛。うねる前髪。視界の端にふあふあ揺れる毛の穂先。お腹をすかせたわたしの仔犬が寝ぼけ眼で尾を振って、目の前にある美味しいにおい――飼い主のわたし――に食らいついている。
高窓から漏れる光の角度で、思いがけず長く眠っていたらしいと知る。そして千里は、押して呼んでも反応しない。明らかに寝ぼけている。
「こぉ……らぁっ、んむ、ちょっ、あふ」
理性がなんとか、足首をばたばたさせて、肘から先で軽いからだを押し退けようと形だけでも動かそうとする。でも唇に、はぷりと噛みつかれるたび、力が抜けてしまう。
さすがに、無理、気持ちいい、でも無理わたしだってお弁当とか、……いい、お腹がすいたからお弁当、……だからもう、犬くさい唾液ばかりじゃなくてお茶が飲みた、い。こんな濃いにおいの液体ばっかり飲んでたら、腰が、浮いちゃう、から。
「んぅ……はぁ、はふ、ふ……ぁ、あふ、うー、もぉっ……」
抵抗して胸を押していた手が力なく、さまよったあとで、薄い背中に縋りつく。
もうすぐ、長い舌が口蓋を舐めてくる。歯茎の隙間の飲み残しも探り当てられちゃう。ほんと、この子の舌のざらざら、だめ。ずるい。寝起きなのにこのまま、眠る直前にいったばっかりなのに、……はしたなく、期待にびくんとからだが跳ねている。さっきまでこの手で握っていたものが欲しくて、ひくつく奥がわなないている。
と。
ピロぴろリン。と、携帯端末が発した音で正気に返った。たまたま舌が離れたところだったのも幸いして、間一髪、顔を逸らすことができた。千里の狙いが外れたタイミングで、華奢なからだを膝も使って横に押す。力が入ればびっくりするほど簡単だった。
「みゅ」と可愛く鳴いて、千里は半回転してマットに潰れた。まだ寝ぼているらしく、においを嗅いで、わたしの手首をあむあむ食んでくる。こそばゆい。
「もー……」
わたしも、千里も、どうしようもない。
しばらく悶々としてから、振り切るように身を起こした。手首はタオルと入れ替えておく。わたしのにおいや千里の熱がすべて混ざってびしょびしょになった青いタオルに、寝ぼけ仔犬が牙をたてる。幸せそうだ。
ポケットを探り、端末を起動する。
たいした用事ではなかった。仕事熱心な生徒会長が、昨日わたしが休日出勤して仕上げた書類の確認に、学校に寄るという業務連絡。つきましては仕上げた書類の場所を教えろと、それだけだった。事務的に返信、送信。終わり。
薄い吐息で、そのまま頭上にかざして時間を確認。午後二時。思ったよりも長く寝てしまった。マット隅までもぞもぞ這っていく。気怠くて腰に力が入らない。下着も気持ちが悪かった。
それでもお腹はしつこく鳴くのだから、本能って正直だ。