第七章 / わたしは「おあずけ」と「よし」を教える
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雨垂れを滴らせる小花模様の碧い傘を、昇降口の金属カゴから抜き取った。23センチのローファーがアスファルトを踏みしめる。
いつ頃から日本社会なるものが、週休二日制になったのかわからない。父や母の世代にはどうやら違ったらしいけれど、偉そうに昔のことを聞かされたってピンとこない。
ともかく平成生まれのわたしたちにとって、土曜日は本来ならば休日だ。
なのにどうしてわたしが薄いブラウスの夏服で校舎の影を歩いているのかといえば、わざわざ千里に会いに来た、のは、その、ええともちろんなのだけれど、……なにもそればかりが理由なのじゃない。昨日からあんな状態だったわたしは生徒会の仕事が終わらなかったのだ。
あぁぁ、もう。
事実を改めて意識すると恥ずかしさで死にたくなる。自分のことながらどうしようもない。
なかでも昨日の帰り際に会長たちから苦言を呈されかけたとき、治田さんがわたしの嘘を信じて一所懸命庇ってくれたときの後ろめたさといったらない。一緒に選挙演説をして、喜びあった同級生なのにこの違い。こんな仮面優等生が役員仲間で申し訳ない。そのうちお詫びに、お菓子のひとつも焼いていこう。
ともあれそんなしょうのない理由で、わたしはいつにもましてひと気のない小糠雨のぬかるんだ道を、傘を片手に歩いているのだ。まあ、この時期は文化祭前というのと、一部の運動部は新人戦があるのとで、休日に登校するだけなら思うほどには目立たない(校舎に入るためには一応、事前の許可がいるのだけれど)。早々に残した仕事を切り上げて職員室に鍵を返すと、ちょうどお昼を回ったところだった。
遠慮がちな空腹に疼くお腹を意識しながら、水筒とおにぎりの入った肩掛け鞄をからだに寄せる。しとしとと勢いを弱めては止まない雨に、傘のふちから不規則に落ちる雫が靴を濡らす。ぬかるんだ足元は一歩一歩と沈みこんで、足首部分の靴下がじんわり湿った。九月の雨はもうつめたい。頭上の葉はまだだいぶ青々しいのに、秋空から降ってくるものは夏すらとうに置き去りにしているのだ。
鍵の開いたままになっている錆びた倉庫の扉を静かに横引いて、染みをぽたぽた落とす傘を片手で閉じた。
「千里、いる?」
いた、けど寝ていた。マットの上に横たわる目を惹く羽織。二日ぶりでも変わらない艶めく赤毛。後ろ手に戸を閉める。
「千里」
「はっ、はい、カオカ……さま…、」
もう一声呼びかけると、耳がぴんと立ちあがって、ぽおっと紅潮した頬をマットから持ち上げて、緩慢に見当違いの方を見つめてから尻尾を揺らした。不思議そうにきょろきょろしてから、ようやくわたしを探しあてると、見るからに慌てて乱れた裾を取り繕い、ぺこりと耳ごと頭を下げる。
否応なしに気がついた。一昨日までのような、全身から立ち昇る明るく元気な艶がない。そういえば起き上がり方にも勢いがなかった。なにより、
「顔色悪そうだけど、大丈夫なの」
「え?」
千里はぽかんと口を半開きにしてわたしをちょっとの間だけ間抜けたように見つめてから、顔を赤らめ唇をむずむずさせた。襟のあたりで両手を揉むと、ふさふさ尻尾がぶんぶん揺れる。
「あぅ、あの、そ、そんなお言葉もったいないです。カオカさま、お優しいんですね……えへへ」
なにがどうしてそうなるんだろう。千里の中でわたしは一体どんな高潔な貴婦人として存在しているものやら、想像すると恐ろしい。実際には、不埒なことしか考えていないだめなわたししかいないので居た堪れない。
とはいえ、心配なことは心配だ。わたしは人の顔色ばかり窺って生きてきた子だったから、人よりも少しだけ、隠しごとには鋭いほうだ。千里はやっぱりあまり具合が良くないように見えるし、それ以上になにかを言えないでいるだろうことも、ぼんやりとだけれど察せられた。言いたくないことを強いて訊き出していいものなのか、わたしには判断がつかない。とりあえず訊くにしても訊かないにしても、さっきからきゅうきゅう鳴いている小さなお腹を塞いでからにしよう。
「一緒にごはんにしようか」
鞄から巾着袋とコップつきの水筒を出して、靴を脱いでマットにあがる。シートはないし、お菓子もないけど気分は遠足。一人じゃないのもなんだかいい。水筒から温かいお茶を注いで、ひとくち温度を確かめてから、不思議そうに湯気を見守る少年に渡す。
「カオカさま、これは?」
「そんなに熱くないと思うけど、気をつけてね」
たおやかな指先が手渡しの一呼吸に重ねられる。飾り紐の鈴がちりんと澄んだ音色を響かせた。ぱらぱらと気のせいみたいに屋根を打つ雨音。湿り気のある涼しげで淀んだ秋の音。しみとおる指のぬくみ。わたしはそっと手を戻した。
緩く紐で合わされただけの胸元が視界の端にちらつく。千里はふんふんと鼻をひくつかせてから、三角耳を垂れさせて、恐る恐るコップに顔を寄せている。喉を滑り落ちるお茶と、同じ液体が、杏色のしっとりとした唇を濡らした。
高鳴る心音を誤魔化すようにお弁当箱を取り出した。蓋を裏返してお皿にし、千里にもいくつかおかずを分ける。
千里は口ごもってから、ありがとうございます、と形ばかりに微笑んだ。聞き覚えのある声音に、あれと顔を見返して……
…………あ。
箸を動かす手が止まった。見覚えある彼の仕草と表情に、引っかかり途切れていた鉤に糸が渡され細くも確かにつながっていく。
思い返せば、いつもそうだ。ごはんの話になると、千里の態度は濁したようなものになる。そうだ、幾つも思いあたる節はあった。
光に包まれ現れたこの子がいきなりわたしにやったこと。
――いただきます。
――ご馳走様でした。
毎日の去り際にどうしても、と求められて渋々応じていたことの意味。
卵焼きを飲み下した胸の奥で鼓動が早まる。
手のひらに蘇る、頭を撫ぜたときのさらさらした感触。お仕えしますと捧げられた祈り。
――嫌なら嫌と、お好きなようにはっきりとお命じください。ぼくには、遠慮なんてご無用です。
おにぎりを咀嚼するたび、お茶が喉を潤す熱に息をつくたび、ちりちりと炎が鍋底を舐めるように、おかしな考えが確信に近づきながら首をもたげるのを感じていた。
お弁当箱を片づけて(千里はあまり食べなかった)、食後のお茶を同じコップでかわるがわるに飲みながら言葉を探した。なんと言えばいいのだろう。壁際でぺたり座った犬の子は、そんなわたしに気づきもせず眠そうにぽうっとしている。ぬるいお茶を口に含んでからゆっくりと飲み込んだ。高鳴っていた脈拍はもう鳴りを潜めている。緊張もしていない。心の波は穏やかだ。波浪警報注意報なし、大丈夫大丈夫。うん。……よし。
「ねえ千里、訊いてもいい?」
お茶を勧めて問いかける。異界の少年は危なかしく受け取りながら、「はい」と素直に頷いた。
瞳に映るわたしの髪は黒々として、舞い立つ埃の光の底で薄明かりのシルエットになる。雨がやんだ様子はないけれど、それでもあまり来たことのない昼間のここは戸惑うくらい明るくて、影も光もより露わだ。いつもなら冬子先輩の定位置になる跳び箱は、ずっと座られていないせいだろう、横の光に照らされて、埃の層と汚れが今までよりもこまかにみえた。内臓を握りこまれるような息苦しさが、少しの間、思い出されて泣きそうになった。なぜだか。この倉庫で、春から夏にかけて、冬子先輩と幾日もの放課後を過ごした記憶が消えてしまいそうな気がしたのだ。
くだらない感傷を押し込めて、息をはく。それから、コップを口につける千里に向かい、
「食事しなくていいの?」
首を傾げてゆっくりと、一言だけ訊ねた。
ほとり、こと、こと。鮮やかな羽織の下、取り落とされたコップの動きにつられて、数度響いた乾いた音も消えて、やがてわたしたちの間には静かな雨音だけになった。