第八章 / わたしは千里に「待て」を教えそびれていた
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………………一時間ほど、経った。
微笑みながら深々と三角耳ごとしとやかな礼をとり、告げられたらしいひとことはまともに聞き取れていない。顔をあげる力もない。耳のうちでは自分自身の呼吸音がはーっ、はーっ、と反響して、跳ね損ねた腰がひくひくと小刻みにくねっている。
――ひどく中途半端なところで、千里は「食事」を終えてしまった。
中途半端っていうのはもちろんわたしにとってだけの話だから、千里が満足そうでもおかしくはない。でも、……でもわたしはさんざん昂らされて今またもう少しでまたよくわからない場所へいけそうだったところなのに、残りのひと匙だけ残してナイフとフォークをひょいと引っ込められた惨めなお皿みたいになっている。千里の声も風の音も、遠くにぼんやりとしか聴こえない。視界も涙で朧げだ。濡れたふとももが擦れるたび、もどかしさを粘る響きで訴えるのが恥ずかしいどころかもっと大きな音ならあの子の耳に入るだろうかなんて情けないことすら考えてしまう、のが、つらい。あとたった一度、口のなかをべろりとしてもらえたらもうすぐにいけそうだったのに待ってたのに準備してたのに、なんで、なんで、もう一口だけいいじゃない空気読んでよ千里のばか千里のばか千里のばか。ばかばかばか。千里のばか。こんなお預けするくらいなら、手加減なんていらないのに――
「とっても美味しかったです! カオカさま、ありがとうございましたっ」
こちらの思惑なんかまるで気づいた風もなく。繰り返しの宣告がはっきり耳に届いてしまって、跳ねた水滴で驚くみたいに、盛る炎が揺らめいて小さくなった。
こんなにもどかしいなら得意の嘘でもなんでもついて、千里をもう一度「食事」に引き込めたらいい。そうできればとてもいい。けれどねっとりした捕食行為をされてじっくりじわじわ二回もいってしまったあとすぐじゃ、とても頭は働きそうにない。呼吸を整えるのに精一杯で、微笑む仔犬に愛想笑いも返せない。
――意識して、深呼吸、しなくちゃ、だめだ。
十秒かけて、ふー…、とゆっくり力を抜いていく。快感を諦めきれない両膝でカーディガンの裾を挟み、ぼんやりと飾り紐を見つめる。鈴が鈍光を弾いて、蕩けた視界で滲んでいる。
勘違いしては、だめだ。捨て犬に与えたペットフードのお皿がようやく空になっただけ。愛らしい仔犬にからだを犯してほしいなら、ちゃんと、わたしの言葉で誤解のないよう伝えるべきだ。さっきまでのはあくまで命をつなぐ「食事」であって、わたしを気持ちよくしてもらう行為なんかじゃない。わたしが、勝手に、食べられながらキスで感じていっただけ。って、そう考えるとすごくいやらしい。なに考えているんだろうわたし。だめだ。もうだめだ。俯くと、快感とは別のなにかで耳がかあっと熱くなる。
千里は急かしてこない。穏やかに尻尾を振りながら、わたしを待っているだけだ。なにかと訊かれてもおかしくない不自然な間だというのに、くすぐったそうにふふ、と一度笑ったきりで、わたしを見つめてじっとしている。いい子で静かに『おすわり』をして、飼い主が自分と遊んでくれるまで、いつまでだってそこにいる。
朝の肌寒さに、じっとり滲んだ汗とふともものぬるつきがひやりとしている。……うん、ひとつ確かなことがある。まずは下着を替えないと気持ちがわるい、ということだ。ようやく、ひゅう、と喉から声が掠れ出た。
「あの、……千里。ちょっと着替えるから、待っててほしいんだけど……」
「お召し替えですか? ではっ、ぜひぼくにもお手伝いさせてください! お腹いっぱいになりましたから、なんでもできます!」
「えっ」
いや、ぐちゃぐちゃの下着を新しいのに替えるだけだから、手伝いもなにも特にいらない。千里と違って和服でもないし、年下の子に濡れたショーツを替えさせるようなマニアックな趣味も持ち合わせてないし。
「いいからそこで待ってて」
苦笑気味に手で制し、鞄まで四つん這いで移動した。背後でしょんぼり垂れた耳の気配を感じるけれど、こればかりはしかたがない。
鞄の底から、水色のタオルに包んだ下着を取りだす。体育座りで濡れたショーツをそろそろと脱ぎ、少し迷ってマットにタオルを敷いてから置いた。マットに直置きで汚れもの、は抵抗があったので、タオルがあって助かった。濡れたところを拭うためのタオルだったから、ふとももはひんやり冷たいままなのだけど。考えが足りなかったなあとため息をつき、さらにタオルをあと何枚か持ってくればよかったなあと今後役立つこともないだろうくだらない反省をする。
青縞のショーツにつま先を通し、膝のあたりまで引き上げたところで、気配を感じて視線だけで振り向いた。
「どうしたの? ちょっと待ってね」
着替えに興味があるのだろうか。黄な粉の耳をぴんと立て、無垢な仔犬のいつの間にやら距離が近い。
「はい、カオカさま」
赤毛を揺らして小首を傾げ、朗らかな良い返事。わたしもつられて思わず笑うと、千里はますます笑みを広げて、両の拳をきゅっと固めた。
「じゃあぼく、お召替えのあいだにお洗濯して待ってます。カオカさまはごゆっくり、ご準備なさってくださいね」
「あ、うん。ありが、」
お洗濯。
お洗濯、とは、いったい。
ええと。つまり。千里はいつも自慰のあとに、ねっとり濡れたふんどしを、どうやって綺麗にしていたんだ、っけ――
次の瞬間、血の気の引く音とともに一気に記憶が蘇り、からだごと振り返ったら喉まで出かけたひと声すらも溶け落ちた。視界に広がる光景は、声を失わせるには十分すぎるほど目もあてられないもの、だった、のだ。
ほの白い体育倉庫の壁際で。豪奢な羽織の袖口が、しなやかな手首にしなだれかかっている。手首の先にはすべすべと白い手の甲、そして続くふっくらした指先は濡れたレースショーツをつまみ上げている。
繊細な指先はつまみ上げた薄布を長い睫毛の前で器用に広げ、薄い杏の唇が厳かになにやら呪文を唱えはじめる。窓から射す午前中の薄明かりが、半透明の白いショーツを照らしているのが、厭になるほどよく見えた。