第七章 / わたしは「おあずけ」と「よし」を教える
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知らなかった。ううん、正確には、知識だけなら、あった。いわゆる、その、いくっていう感覚のことについて、だ。彼氏との行為では、もしかして近いところまではいっていたのかもしれないと思っていたけれど。でも、近くどころかその波打ち際にも辿り着いていなかったのだと、その瞬間に、知った。
十回目くらいの「いただきます」のあとで。びくびく跳ねるふとももが止まらなくなって、奥のあたりがわたしの意思とは関係なしにわなないて、すうっと意識が遠くなりながらちかちかしはじめた。それから、来た。来たというしかない。ああ、でも、いくっていうくらいだから。逆なのかな。どこかにいかされてしまう、ということなら、わかるかもしれない。
……とにかく、それが終わったあとは勝手に腰がひくひくしていて、息があがって肌という肌がひりひりと敏感になっていた。
それでも容赦なしに「食事」が続くと、もう、一度覚えた感覚を復習するみたいにして、より短い感覚で、それがまた来た。次は六回くらい「いただきます」をされた直後。……って、なんでこんなこと数えてたんだろう。もうそれ以降は知らない。数えてない。数えてないったら。
だから、なんにしてもわたしは、いくという体験を、初めてさせられたことに、なると思うのだ。しかも、繰り返し繰り返し。
キスしかされてないのに。
キスしかされてないのに。
うううう。
真っ赤になって、ぐしょぐしょの下着に困り果てているわたしである。なんで。なんでこんなことに。もう。腕時計をちらりと見たら三時間は経っていた。さ、三時間。三時間って。おかしい、もう、だってこんな、三時間もひたすら、絶対おかしい。日もだいぶ傾いてるし。授業なら二時限相当分ずっと。
そりゃあ食べていいって言ったけど。こんなのちょっと予想外だ。
「カオカさま、ありがとうございました!」
一方の千里は頬もふっくら、元気溌剌、尻尾の毛艶も良くなって、微笑みも三割増しで輝いている。深々耳を下げられても、素直によかったねと言いづらい。もてあます熱の半端さに、いっそ意地悪だとさえ感じてしまう。もちろん千里は悪くないって頭ではわかってる、わかってはいるけれど。け、けど、わたしの方は、全然すっきりしていないし、喉は渇いたし、腰も抜けてるし、ふとももまでべとべと冷たいし、動悸がちっともおさまらない。だって初めてなのに。えっと、つまり、いったらすっきりするっていうのは嘘じゃないんだろうか。千里は自慰でいつもすっきりしてた風なのに。男の子だからだろうか。ずるい。こんなになるなんて聞いてない。
「………お腹いっぱいには、なれた?」
今までと随分違ったじゃないと言外に恨みをこめて見上げると、千里は少しだけ赤くなってえへへとはにかんだ。
「その、ちょっと遠慮してしまいました……すみません」
でも腹八分目って言いますから、大丈夫ですよ!と、なぜかフォローを始める天使の微笑みに、ぐらりと視界が歪む。
え、あれで?
あ、あれで遠慮されてたとか、う、うそだ。額を押さえた。まさかあれでも手加減してくれていたなんて、えぇ、じゃあつまりええと。……食事回数は、一日何回なんでしょうか。一回だよね? 三回食だったら合計九時間……、無理無理、そんなのいくら気持ち良くても絶対死んじゃう。おかしくなっちゃう。無理。だめだ怖くて訊けない。
それでも、と、心のどこかでは冷静に思い返しているわたしもいた。膝をうずうずさせながら考える。
休みなしに延々されて三時間。あれでようやく並の食事量なのだとしたら、千里にとって、今までの挨拶程度のキスなんかじゃ、ちっとも足りていなかったということになる。水を一口啜った程度にしかなっていなかったはずだ。それでも千里は、一番最初の「嫌だ、やめて、したくない」というヒステリックな意思表示を、わたしにとっては価値あるものとして、ずっと耐えて守り通してくれていたのだ。
思い至ってさすがに、胸がきゅっとした。頬が別の意味で熱くなる。結局はこんな羽目になっちゃったわけだけれど、でも、そんな風に尊重される経験なんてあまりなかったから、素直に喜べない。狼狽えてしまう。なんならその、お腹いっぱいにしてくれても、なんて、いや違う違う、そういうことじゃない。
そんなわたしには気がつかないのか、充実感溢れる千里は大きく両腕をあげて、尻尾をぶんぶん振りながら、ぱーっと喜びを表現している。
「あのあの、カオカさま、すっごく美味しかったです! こーんなに!」
あ……、はい、ありがとうございます。
毒気を抜かれてため息をついた。なんだか、こども相手に欲情している自分が恥ずかしくなってくる。既に充分恥ずかしいという自覚は見なかったことに。わたしの教えた自慰行為と、今の食事代りのキスは、どちらも人間のわたしにとっては「性行為」にあたるのだけれど、千里にとっては全然別の領域に属することなのかもしれない。
千里はにこにこと話し続けている。
「熱の発散さえしていれば命に関わることはないかなって思ってたんですけれど、やっぱりだめでした、海の中でもお腹はすくんですね。……でも、お許しいただけてよかったです」
ふっと息継ぎ、飾り紐に手を添える。ちりんと澄んだ鈴が歌う。千里は、少しだけ眉を曇らせて、苦く笑った。
「ぼくはばかです。カオカさまにたくさんお世話になっているのに、観楽に帰る前に命を落としてしまったらもう、試練もなにもだめになってしまうところでした。それじゃあ意味がないんですよね。……カオカさまはやっぱり素敵な方です」
ふふ、と笑われて無性に恥ずかしくなる。うう。なに言ってんだろうこの子は。よくわからないけど過剰に褒められているという事実だけはひしひし感じる。視線を泳がせ、震える声で焦って手を振る。
「や、そっ、そんなことないから。気にしないで……あの、どうも、お粗末様でした」
なに言ってんのわたし。
「ご馳走様でした」
こちらは素直ににっこりと、丁寧なお返事。
「カオカさまさえよろしければ、明日もどうぞよろしくお願いします」
「ぁ――」
言葉に詰まる。喉が鳴る。
明日も。明日もあんなこと、されるん、だ。意識は自然と牙の覗く杏色の唇に引きこまれて、薄れかけていた情欲が、首をもたげてくる。喉の奥が、潤む。もちろん、嫌だって言えば、あんなにはされない。ここまで五日間、あれでも千里は生き延びていたのだから、毎日する必要はない、し。もう少し手加減をしてもらうように、言ったりとか。
「よろしいでしょうか」
「……えっ、と」
そ、そうだ。現実問題について考えよう。今の時期なら、部活動の朝練もあるし、校門は普通に開いてる。校舎にさえ入らなければ、こっそりここに来る分には、届け出もいらないはずだ。親には、生徒会だと言えばまず怪しまれない。もとからわたしの外出にはあまり興味もないみたいだし。
「大丈夫……だと、思う、けど」
「わあ」
華やいで手を合わせる喜びかたは純粋で、なんの下心も感じられない。こんな笑顔を曇らせる必要はない、そう自分に言い訳をして、苦笑する。腰にかかる黒い毛先を掻きのけて、スカートを心持ち膝にかぶせるようにした。
ほんとうに、だめな飼い主だ。というか食べられて興奮するなんて、もうどっちが飼い主なのかわからない。
空の雲は白いけれど、まだ霧のように雨は差し出した手を濡らす。
下着を気にしながら傘を手に取り、金属扉をもう少し引く。肌寒い濡れた風がふわり吹き込み、スカートの裾がはたはた踊った。
「カオカさま」
背中から、呼び止められて敷居の途中で振り返る。少女じゃなくて、男の子なんだと思い出すような、落ち着いたアルト。けれど見つめた向こうに待っているのは、柔らかな赤毛と羽織で彩られた、従順な異界の獣だった。
マットの隅で居住まいを正した千里は、わたしを見返し、頬を緩めた。
「明日で、七夜目です。七夜の試練も終わりです。もしも万事が滞りなくゆけば、潮の引きと一緒に、ぼくは観楽へ還ります」
湿った風が、毛先を踊らせて腰にまといつく。言葉を失うわたしの視線を受け止めて、透明な笑顔で、千里は静かに目を細めた。
「また、明日……お待ちしております」