第二章 / わたしは千里を拾うことにする
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「あの、」
はい。
「なにを、なさっているんでしょうか」
そうですね。
遠慮がちに再び訊かれ、おそるおそる視線をそちらへ上向ける。純朴な瞳が、ただわたしの行為を責めるでもなく問うていた。
止まっていた分の時間が急速に圧縮されて追いつけとばかり加速する。首から頬から耳まで熱く、冷や汗がだらだらと背を伝う。
まずい。まずいまずい恥ずかしい死んじゃいそう。
言い訳など一切きかないくらい誰がどこからどう見ても百パーセントわたしが悪い。攪拌された脳みそでなんとか虚構を創り上げ、喉から絞り出した声がみっともなく震えた。
「べべべ別に変な意味じゃない、のっ。ここは学校なんだからね、無断侵入だから、し、身体検査」
ああああ、なんという説得力のない言葉。口に出した瞬間からものすごい後悔が大波小波と襲いかかる。そんなわたしの焦りにもかかわらず、
「……え、は、はい。どうぞご随意に」
彼は素直に頷いて、わたしの指が離れるのも意に介さず、もぞもぞとからだを起こした。そして、正座から踵を割ってぺたんとお尻だけをついた格好になり、自ら裾を割り、ゆっくりと持ち上げて、膝からふとももまでを露わにしはじめた。
ご、ご随意にと言われましても。お見合い状態になると、わたしよりも頭の位置が僅かに高い。
……そうだ。わたしはようやく最初の引っかかりに気がついた。ほっそりとした首の中央部が、それとわかるほど上下していた。違和感の正体。喉仏だった。
言葉に詰まるわたしを見つめて、不思議な少年は淡く笑む。
「自己紹介が遅れて申し訳ありませんでした。ぼく、観楽は千阪の生まれ、字は千里と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
血色のいい頬を染めて。ぴこりと柔らかい耳も一緒に、裾を持ち上げたままで、完璧なお辞儀。カチューシャなどは見当たらない。
「あっ、えと、はい。わたしは、香緒花。桧山香緒花よ」
丁寧な名乗りにつられて怪しい耳から視線を離せないまま頭を下げた。角度は二十度。三角定規にも劣る無礼さ。
観察中のわたしをよそに、千里は濡れた睫毛を伏せながら、膝の着物を細い両指で握り締めた。
「カオカさま、ですね……どうぞ、心ゆくまでお調べください」
たおやかな手で艶やかな着物の裾をさらに割り開いて、膝も不器用に開くと、皺の寄ったふんどしがじりじりと露わになった。気のせいじゃない。さっきより、なんだか、大きさが変わっていると思う。はぁ、と漏らされた息も心なしか熱っぽく聴こえる。
千里は口籠ったわたしを見つめ、恥ずかしそうに微笑んだ。尻尾が、左右にゆったりと振られている。小窓がガタガタと軋んだ。視線をやれば、暮れはじめた青を背にした枝がたわみ、晩夏の風が唸っていた。
見慣れた景色からふと視線を戻すと、千里はまだそこにいた。いっそう際立った非日常に、言い知れない困惑が、徐々に打ち寄せる。ここに来てようやく、わたしは、もしかしてとても良くない状況にあるんじゃないか? という疑問をほんのかすかに抱き始めたけれど、あまりに千里が可愛らしく微笑んでいるので、決定的に退路を失いつつあった。
「えと。こほん。えと、君は――」
「ぼくのことは千里とお呼びいただければ幸いです、カオカさま」
有無を言わせない雰囲気で遮られ、気力がしぼむ。意外とこの子、押しが強いのかもしれない。
「どうぞ、千里と」
「……せ、千里は」
「ふふふ」
微笑みとともに尻尾が左右に揺れた。あの尻尾、何か見覚えがあると思ったら、耳も尻尾も、昔、従姉の家で飼っていた柴犬に似ている。うん、すごくどうでもいい。目を逸らして平常心。よし。戻す。
「千里は何者なの? 急に現れて、あっもう身体検査はいいから手は下ろして、そう。うん。とにかく、地面が揺れて、光ったと思ったら、君が現れて、その、いきなり……」
「またシてもいいですか?」
「そ、そうじゃなくて」
ぐいと近づいてくる顔を手でブロック。なんでキスしたがるのこの子。それにしても前髪が柔らかい。残念そうに身を引いた千里に、改めて咳払いをして制止する。冷静な表情ができていればいいけど。
「いきなりああいうことされると、困るから、待って」
「まっ、え、ま……待ちま……す」
断腸の思いで、と言わんばかりの悲壮な顔で頷かれた。待たれても困る。のに、ここで二度とするなとか言えないのがわたしのダメなところだと思う。涙目はやめてほしい。耳もしょげないでほしい。追い打ちかけづらい。
「えっと、だからなんだっけ、もう……。そう、いきなりどうして現れたのか、ちゃんと説明してくれる?」
「転海したからです!」
ぐっと拳を膝に押しつけて尻尾を立てながら力強く言い切る。澄んだ瞳が輝いている。
うん、わかんない。
「て、てん? なに?」
「転海が成功したので、これから七夜の試練です。生き延びることができれば、自動で観楽へ召還してもらえることになっています」
説明には淀みがない。
沈黙。三秒間。
千里は一呼吸いれると、いったん口をつぐんで目を閉じた。
「おかしいですよね。わかってるんです、無謀だってことくらい。でもぼくは怖がりで力も弱かったから、戦わないでいいんならこれしかないって思ったんです。皆にも笑われて、楓乃のことも泣かせてしまいました。ですが、いきなりカオカさまという方にお会いできたのですから、これもお導きですよね!」
腰を浮かせんばかりにほころぶ笑顔が花のよう。可愛いけど、
ぜんぜんいみがわからない。なに言ってんのこの子。
「だっ、だから、待って。そんなんじゃちっとも――」
「カオカさま」
甘い声が、呟く。
「ですから――お願いします!」
「なにを!?」
「なにかを!」
指をぎゅうと握られる。少女のような見た目でも、視線がほんの数ミリだけでも上に来ると、男の子っぽく感じるから不思議だ。
うう、ダメだどうしようなにかすごく期待されているっぽい。でもほんと、ぜんぜんいみがわからない。握られた指を振り切るように抜いて、目を合わせないように言葉を選ぶ。
「あ、あの、あのね」
こういうの本当に苦手だ。頷く方がずっと楽。
「よくわからないけど、わたしじゃ多分、君の期待には応えられないと思う。正直……、今の話を聞いても、なにをしていいのかわからない、し……、」
ふと目をあげたせいで、風音が掠れ声を飲み込んだ。千里は、目を伏せ膝を割り開き、再び上着の裾を持ちあげていた。赤毛のかかる薔薇色の頬をさらに染め、静かな声音で、ひとことひとこと、噛み締めるように囁き告げる。
「……いいえ。長老より、花と血のにおいをもつご婦人にお会いできれば必ずや、海圧による熱の治め方をお教えいただける、と伺っております」
さらし布に隠された、華やかな布地と白磁のふとももに翳るそれを見せつけて、千里は恥ずかしそうに微笑んだ。
「どうすればいいのか、試練前の未熟なぼくにはわからないんです。カオカさまは、本当にご存知ありませんか?」