目次

千里の裾野

プロローグ
1
第一章
1 / 2 / 3
第二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6
第三章
1
第四章
1/ 2
第五章
1
第六章
1
第七章
1 / 2 / 3
第八章
1 / 2 / 3 / 4 / 5
第九章
1 / 2 / 3 / 4
第十章
1
第十一章
1 / 2 / 3 / 4
第十二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8
エピローグ
1(完)

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第四章 / わたしは千里の餌づけを始める

 
1

 昼休みを告げる鐘とともに購買へ走り、目についたパンをさらって腕に抱えていったんクラスのロッカーへ。竜田揚げパンだけを自分のためにつまんでおいて、それから生徒会室へ。予鈴に慌てて書記の治田さんと一緒に新校舎へ戻り、教室に滑り込んだら五時限目だ。
 なにかと忙しい会計係は、犬の面倒を見るのにも時計と睨めっこするしかない。昼休みに前もって放課後の三十分遅れを予告しておき、あとは鐘と同時に泣き出しそうな影薄い空の下を、抱えたパンを落とさないよう小走りにいく。
 引き戸が重々しく唸る。体育倉庫はやはり誰の訪れた痕跡もなく、壁際のマット以外は小窓の薄い光に沈んで今日も忘却のなかに眠っている。
 千里はといえば、顎をマットにつけるようにして礼拝のようにうつ伏せるという、なんとも奇妙な格好で涎を垂らして微睡んでいた。背中がゆっくり膨らんでは萎むので、呼吸はしているようだけれど、……あまりの寝相に、ちょっと引く。投げ出された両腕に挟まれて顔が見えないし、容姿に対してひどすぎる格好なので放っておくのも心配だ。色々な意味で。というかなにをどうすればあの格好に?
 仕方なしにパンを青い平均台に置くと、靴を脱いでマットに上がった。千里がいるのは壁に沿って七枚積まれた広いマットの一番奥だ。ハイソックスの膝部分が埃で白くなりそうでちょっと、気になるけれど。まあ、叩けば落ちるだろう。膝立ちのままにじり寄って、
「千里。起きて」
 囁き声で揺すり起こすと、両耳だけがくぴっと跳ねた。
 一秒遅れて潰れた前髪がのろのろとマットから持ち上がり、……ぼすんと落ちた。そしてまた、持ち上がる。涎の染みから唇をちゅぅと離して糸を引いた口元を、次いでもう片手では目を擦り、腰ごと尻尾を振るようにして緩々とお尻のまろみを持ち上げた。
「ふぅ、ん……う?」
 そこで、ようやく覚醒したのだろう。不意に鼻をひくと動かすと耳を立ててがばりと起きた。
「カオカさまだ!」
「え? わっ、ちょっ!?」
 千里は、勢いのままにわたしを見つけて破顔一笑前のめり、マットの縫い目跡がついた額をお腹にぶつけるようにタックルをしかけてきた。
 受け止め損ねて格好悪く尻餅をつく。思わず呻くわたしに構わず、千里はわたしに突進したまま腰を起こして膝立ちになり、尻尾をちぎれんばかりに振りたくり、鼻面をわたしの鎖骨あたりに擦りつけつつもぎゅうと力いっぱい抱きついてきた。犬か。犬だ。とはいえ彼は幼さの残る少女体形であるからして、白い膝がくるぶしの間に割り込んで、頭を受けとめた指の隙間に柔い和毛が滑り込む。
「ちょ、ちょっと、喜びすぎ」
「カオカさま、お待ちしておりました。ぼく、ぼく、あれからもう一回、寝る前に頑張りましたっ。ちゃんとできましたよ!」
 わたしの制止を聞いてか聞かずか千里はぱっと距離を取り、誇らしげにわたしの目をまっすぐ見つめて天使スマイルでご報告してくださった。うねる毛先がさらりと揺れて、涼風を誘う。褒め言葉を待っているようだがわたしは絶句だ。
 ……あ、うん。できたってつまりアレを。
 千里はにこにこにこにこ笑っている。待っている。
 言葉だけでもなにかを伝えてあげなくちゃ、と思うのに、予想外で声の出し方を忘れてしまった。その沈黙をどう受け取ったのやら。千里は黒く深いビー玉の瞳をはっと見開くと、照れ笑いをして可愛らしい小さな顎を軽く傾けた。
「あ、ぼくったら、それだけじゃわかりませんよね。ちゃんとお見せしますね!」
 おみせ。お店。ご開帳。
 違う違う、現実逃避をしている場合じゃない。
 呆然としている間に昨日の躊躇いはなんだったのかと思える素早さで、千里は金の飾り紐をするする解いて、さらに下着に手をかけていた。それもわたしに半ば伸し掛かったままで。
「せ、千里待って、」
 蚊の鳴くような声は届かなかった。しゅるとふんどしの紐が解かれる。銀糸の模様の前垂れが、覆っていた男の子のモノを外気に晒そうとはらりよれ、わたしのスカートへ落ちてきた。そうして布の向こうから、まるでわたしの膝の間から急に出てきたようにして――昨日よりもっと近い距離にある肉色のモノが、添えられた白魚の指先に支えられて少しずつ膨らみながら角度を上向け、わたしの顔の方へと、うわ、なんかもう、ちょっとどうすれば。いきなりの展開に、頭も心もついていけない。だっていうのに、
「ぼく、頑張ります。見ててくださいね」
 千里はなんの疑いもなくわたしが見てくれると思っているようで、決意表明をするだけすると、わたしの気持ちも確認せずに男の子をおもむろに三本指で軽く握ると、静かに擦り上げた。つまり……その体勢のまま、オナニー、を、始めた。
 速すぎもせず、遅すぎもしない。おそらく千里の見つけた一番心地のいいやり方で優しく肉茎をさすっては、あぁと浮かされたように数度呻いて首をかくりと垂れる。そしてまた、わたしを何度か熱っぽく見つめては、しゅ、しゅ、しゅと扱きつつ、恍惚として覚えたばかりの行為に浸る。
「すごい、すごいんです……、カオカさま、見てください、ね、ぼくのおちんちん、大きくなってるの……」
 亀頭から分泌されつつある粘液が淫猥に光を湛える。薄曇りで昨日よりもずっと光量の少ない屋内に、むせるように満ちているのは、おおきくなる、大人の生殖器だけが放つことのできる、雄の濃いにおいだった。ねっとりした発情のにおい。息苦しい。呼吸のしかたが、わからない。どちらのかわからない荒い吐息も、うるさいくらいの心臓の音も、先走りのいやらしいくちゃくちゃいう微かな響きに乱されてよく聴こえない。湿り気のある秋風もまた、古びた倉庫をうるさく揺らしていた。
「んぁ……ふぁ、あん、ん、ん…っ」
 千里は耳の内側までサーモンピンクに染めながら、鼻にかかった音色で喘ぎよがり、ふるりとふとももから腰へかけてをくねらせた。
 わたしは千里が何度もこちらを窺うせいで顔も逸らせず、行き場を失った両手を腰の後ろについたまま、倒れこまないよう力を込めるので精一杯だ。汗ばんだ手の裏で、マットの埃のひとつひとつがまとわりつく気さえした。
 耳が熱い。胸が熱い。お腹が熱い。がんじがらめの困惑の奥深くから、いつしか這い寄ってくる感覚の在り処を否応なしに自覚しかけて、何度も必死で否定する。そんな、わけがない。この感覚の名前なんて、思い出したいわけがない。気力を振り絞って一度だけ、なんとか制止の言葉を口にした。
「ね、千里お願い、や、やめ……もう、もうわかった、わかったからっ」
「ふぇ……あ、なんですかぁ……す、すみま、せ、あっ、……きもちよすぎ、て、聞こえな、あっココ、ココすごいんですあっあっあああっ、ぁ、もうっ、あ、ああ、あああ、ん、ん」
 見せないで。もう見せないで。わかったから、できるようになったのは、もう十分わかったから。
 もう一度、そう言えばいいだけなのに、ダメでも見なければいいだけなのに。糊づけされた唇は乾いて開かない。視線は既に頼まれなくても言葉通りにそこに釘づけされている。歯茎がくちくちべたべた唾液に塗れるばかりだ。
 喉が、鳴る。
 ……くちり。
 ひとながれ伝ったものは、唾液を欲した鎖骨の上ではなくて、お腹の下の感覚だった。
 心臓が大きく跳ねた。急に聴覚が鋭敏になって、水音も喧噪も壁と枝でつくる風の鳴子もわたし自身の喘ぐ呼吸も、一緒くたにわたしの鼓膜を揺さぶり始める。
 いやだ、だめだ。わたしの子宮、思い出しちゃってる。あれ、が、別の男の、あれ、が。何度か、わたしのからだに入ってきたことを、その先に予感してたなにかを、でも乗り切れずに手放してばかりだった波のうねりを、振り返って読み込もうとしてる。勝手に収縮して、本当はもっとなにかが、その先にあったことを知りかけていた、あの行為を、今度はこの男のもので、してみたいって。
 そう思ったせいで勝手に下半身がかくりと動いた、のに気がついて動かさないよう意識を集中する。膣がひくんひくんと痙攣してるのがより一層鮮明にわかってしまって逃げられなくなる。
 あ、だめだ、わたし、触ってもない、のに。なに、こんなの、知らない。わたしはそんなに、いやらしい子じゃ、ないはずのに。千里のオナニー見て、心が先に感じちゃってる。
 恥ずかしすぎて涙が出てきた。違う違う。違う。こんな。こんなこと。
「ぁーー、あ!」
 切羽詰まった悲鳴とともに、千里はわたしのふとももへと不意に触れた。それは溢れこぼれる瞬間に白い液を受け止めるためにさらし布を取っただけの行為だと理性ではわかっていても、今のわたしにとってはもどかしい愛撫以外の何物でもなかった。足先がほんの微かに数ミリ震えた。
「くっ、ぅ、」
 わたしは。……わたしは、奥歯を噛み締め声を出さないように俯いて、迫り波立つ快感の予感を、喉の奥に必死で押し留めていた。
 千里は声にならない声をあげてただ震え、蕩けた瞳で射精を味わっている。

 いつまでも続いたかのように思えた時間は、実際は慣れない快感にたやすく屈した千里のために、ものの五分程度しか経っていなかった。
 わたしはパンと飲み物のことを伝えると、逃げ出すように体育倉庫を後にして、湿った風に頬を冷やした。風に押し流される茂みのどこかで、蝉が、夏を思い出させるように、うるさいくらいに鳴いていた。

 でも、次の日も。
 同じように、千里は拒否しきれないわたしに自慰を見せつけ、わたしは火照るからだに戸惑い続けることになる。

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