第二章 / わたしは千里を拾うことにする
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あとから気づいたところによると、咄嗟に精子を受け止めた布は千里のお尻の下に広がっていたふんどしだった。う、うん。という気持ちになりながら、後で手を洗わなければと心に決める。
「もうからだは大丈夫?」
「え、ええと」
わたしの何気ない問いにも真剣に言葉を探しつつ、少年は肌着の前を掻き合わせて飾り紐を結び直している。漂う淫臭と桜色の頬に張りついた数本の髪だけが、行為の影を引いていた。
「はい。あの、こんなの初めてで、びっくりしました」
……感想を訊いたわけじゃなかったのだけど。口がむにゃむにゃする。
わたしの動揺に気づくことなく、千里は服を整え終わると、汚れた下着を広げてなにやらそっと呟いた。銀糸が淡く優しく光る。
光が薄れて驚いた。先ほどの粘りつく汚れは跡形もなく消えて、さらさらした布に戻っている。シミ一つ残らない。千里は当然といった様子で再びふんどしを巻いているので、深く考えるのはやめにした。洗濯しなくていいのはいいことだ。そう。うん。ちょっとふらふらするけれど、その程度で済んでいるのだからこれでも麻痺しているのかもしれない。
ため息をついて立ち上がった。ふらつく足元はもう暗い。日が落ちるまではまだあるけれど、そろそろ生徒会に戻らなければいけない。伝言を残しておいて助かった。このくらいの遅れなら嘘のほかに言い訳を重ねなくても済むだろう。
「あのっ、カオカさま」
裾をくんとひかれて振り返る。手を伸ばした千里が、黒硝子の瞳でわたしをひたと見つめていた。もの言いたげな様子に首を傾げ、少しだけ時計を気にしながら向き直る。
寂しいのだろうか。おうちで飼ってくれるようお母さんに頼んでください。なんて。
おかしな想像を巡らせながら、どうしたの、と訊ねる。千里は恥ずかしそうにただ微笑んでつむじを見せた。なにかを期待するように。うずうず揺れる膝もとで長羽織をきゅっと握っている。
よくわからずに瞬くと、どこかあたたかな一瞬の間があって、千里がぽつりと呟いた。
「……ぼく、カオカさまのおいいつけ通りできたのでしょうか」
西日が翳る。僅かの間、体育倉庫はほの暗く沈み、ややあって、茜を一滴混ぜた夕日の泉に浸された。風が屋根を掻く枝先を揺らしていた。
前触れもなく突然に、わたしはそれに気がついた。
さらっとした赤毛を撫でて、手ざわりに目を細める。
「よくできたね、千里」
千里が顔を真っ赤にして、口元を堪えるように緩ませる。
褒めてほしかったのだろう。言いつけどおり芸を覚えた犬の如く。
「あ、ありがとうございます。 えへ、えへへ」
手の下でくすぐったく三角耳が元気に跳ねる。喜びにあふれたからだの後ろ、巻かれた尻尾がぶんぶん揺れた。
無邪気にはしゃぐ千里をよそに、わたしは、髪の感触を残した手のひらを握りしめた。今の行為が、ささやかながらこの子に対するわたしの在り様を変えてしまったように思えた。
「えへへへへ」
まだ喜んでいる。
可愛いけれど。犬なら拾って帰りたいけれど。
――日が沈むから、帰らなければいけない。
立ち去る前にどうしてもと請われたので、仕方なく、昨日のように少しだけ口を吸われるようなキスをした。背中がかすかに痺れる。薄目を開ければ目の前にはゆるふわ美少女。にしか見えない。唾液だけを飲まれたような、現実感のないキスだった。
「そういえば、昨日からずっとここにいたの? 何も食べないで大丈夫? 」
髪を整えながら肝心なことに気がついた。飲食の形跡が見当たらない。
「あ、だっ、大丈夫……で、す」
なにかを言いかけたようで気になるけれど、残念ながら時間もない。洗濯もあんなふうだったし、きっとなにか仕掛けがあるのだろう。希望的観測ばかりもよくないので、仕事中に食べようと思っていた購買のシュガーラスクを置いていく。
「じゃあ、せめてこれ」
「あ、あの、またお待ちしております!」
「明日来るから」
軽く手を振って立ち去る。信じきった笑顔を背に、扉を閉めた。
もう来ない、とは言えなかった。鍵は、迷ってから、かけないでおく。どこにも行けないわけじゃないのに、なぜか、千里は倉庫から立ち去らないような予感がしていた。閉じ込めるのは、少し怖い。首輪をつけた犬を、鍵のかかった小屋に放置するような抵抗を感じる。
犬といえば。
幼稚園の頃、従姉妹が飼い始めたのが羨ましくて、両親に犬をねだったことがあった。兄は鳥がいいと主張し、親は二人の言い分を勘案し、我が家にはセキセイインコのカゴだけが増えた。
まだまだわからないことはあるし、心の整理はついていないけれど。確かに千里はここにいて、からだの温みは感じられて、わたしなんかに褒められて顎を持ち上げ喜んでいた。
とりあえず、現状を受け入れよう。夢がかなったと思えばいい。ごはんをあげて、しつけして、時がくるまで保護してあげる。うちに連れて帰れない、橋の下の捨て犬を毎日見に来るようなものだ。
いつかいなくなる、素直で可愛いわたしの仔犬。
遠くの沢で、日暮れの虫が鳴いている。先輩に怒られるだろうか。秘密の場所を開け放しにして、変な子をそのままにして。怒ってくれるならまだ、いい。夏休み明けから、あの人が登校している姿すらほとんど見かけていない。倉庫では一度も逢えていない。
もし、このまま先輩が学校に来なくなって、放課後の鐘が鳴る前に日が暮れる季節になって、千里も去ってしまったら。ぞっとしない想像に身震いする。そうしたら、わたしはまた、人がいいしか能のない、退屈ないい子に逆戻りだ。
生徒会室に入ると、会長に頼まれて壁際のスイッチを押した。蛍光灯が埃をまとう。わたしは優等生に戻って遅刻を詫びて微笑んで、窓際の会計席に腰掛ける。先ほどの妖しいひとときはもう心の鍵をひねり忘れて。間もなく無情に日は沈み、茜に輝いた稜線は光を失い、宵の紫へと移り変わっていくのだろう。