第十二章 / わたしが千里と遊んでいたら、あっという間に日が暮れる
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先輩の輪郭が、じわり、ぼやけた。呼吸がひくつく。奥歯を食いしばっても嗚咽を無理に押し殺しても、惨めな涙がせり上がってくる。
「………ッ、…ぅっ、う、ー……っ!」
白い手の甲に、雫がぽたぽた落ちて水になった。
わかってた。
わかってたのに。
先輩にとってのわたしが、気まぐれで餌をあげてる迷い猫みたいなものなんだって、心のどこかで覚悟はしてた。
餌づけしている野良猫が、発情期に交尾しているのを見かけたら、――わたしだってきっと同じ反応をする。「恋人ができたんだね」と微笑ましい気分で声でもかけて。なんなら相手の猫にも煮干しをあげて、あとは交尾を興味深げに観察するか、そっと隠れてしばらく見ないふりをする。全然おかしなことじゃない。
でも、それでも本当の猫なら、隣で死ぬまで可愛がってもらえるかもしれないのに。これじゃあわたしなんて動物以下だ。
悔しさにしゃくりあげる。袖口で押さえたところで意味がない。当たり前の事実に喉が詰まって、また頬から顎へ涙が伝う。それでも懲りずに目元を拭おうと、したときだった。
朱い影がさして、
「いいから」
と低い声がして、朱色が退き、すぐに涙を柔らかな手で受け止められた。
ひんやりとした親指の丘が涙をすくう。細い指先が、目尻に触れる。
最初は千里かと思った。けれどこの一週間、ほぼ毎日触れていた小さな手のひらは、もっと温かくてふくふくしたものだったから、わたしの涙を拭っているのが、可愛い犬じゃないとすぐにわかった。
手の甲を置いたふとももの間にすらりとした脚が割り込んでいる。
伏せた視線の先で、栗色の巻き毛が揺れる。
こんなの、ずるい。
さっきとは違う感情が細胞の隅々から皮膚の裏側までをじんわりと熱くする。あふれかえった熱は涙に変換されていき、わたしは片手で羽織に、片手でブラウスの裾に縋って、子どもみたいにさめざめと泣いた。
冬子先輩はわたしが縋りついても拒まなかった。珍しく困った顔で、
「……なんで泣くの」
と、呟いただけで、泣き止むまで頬の流れに手のひらを添えてくれていた。
目端に過ぎった羽織を引くと、千里の小さな手のひらも、すぐに必死に握り返してくれた。涙を拭う指とは違っているけれど、温かくてふっくらとして、不思議なくらいの落ち着きをわたしにくれた。
だから、わんわん泣いていたわりには、涙が引くまでそう時間はかからなかった。先輩にぽんと前髪を叩かれて、腫れぼったい目を開く。
「ねえ香緒花」
静かな声音が、馴染みのある冬子先輩の喋り方だったので、甘い痛みに胸がざわめく。
「悪いけど、あたし、多分あんたが思ってるほど色々考えてないよ。なんであんたが泣いたのかもわかってないし、言ってもらわないと、わかんない」
高窓から降る梢の光はほんのり赤く、滲む視界にゆらゆら揺れる。先輩は、ほんとうに、わたしを怒ったり軽蔑したりは、していないらしかった。
「あ……の、えと」
思わず千里の手を強く握ると、ぴくっと尻尾が跳ねたので隣を見やる。もらい泣きでもしていたのだろうか。つぶらな瞳が、心なしか潤んでいるようだ。先輩も、わたしの視線に気がついたのか、改めて千里を見てから、わたしに訊いた。
「ところでこっちは彼氏?」
かれし。
ってなんだっけ。
一瞬、頭の中身が真っ白に吹っ飛んでフリーズした。すぐに千里みたいにぶんぶん激しく首を振る。カチューシャがずれたような気がする。
再起動した思考回路はぐるぐる雑多なあれやこれやで大渋滞だ。そうだ、そもそもどうやって説明しよう。千里は明らかに高校生の容姿ではない。制服も着ていないし、犬耳や巻尾がなかったとしても、容貌は十代前半の美少女にしか見えない。これってわたしがむしろ襲っていたみたいに見え、……というか、先輩には彼氏のことを伝えていないのはずなのに、そもそもどこまで気づかれて、ええと、どうしようどうしよう。
パニックのなか、口から絞り出せたのは、たった一言だけだった。
「ち、違いますっ」
「……だろうね」
先輩はあっさり頷いた。それから長い指をちょいと伸ばして、ずれたカチューシャを直してくれる。気まずくて恥ずかしくてくすぐったい。
そうだ、彼氏ができたことを知らなくても、性行為をしていたのを知られたのだから、相手と「そういう関係」だと思うのはむしろ自然なのではないだろうか。ということは彼氏じゃないと言ってしまったのはまずいのでは。で、でも彼氏には不誠実が原因で先週振られたばかりですなんてさらに言いづらいし――
「でもあんた夏休み前に男できたんでしょ、そっちはなに、二股してんの」
心臓がどくんと跳ねる。嘘だ。だって、言っていないのに。ま、まさか彼氏のことまで先輩が知っているなんて思わない。ああ、でもでも二股なんてすごい誤解だ。とにかく、わたしはそこまで不誠実じゃないとわかってもらわなくちゃいけない。慌てて冬子先輩の薄い肩を揺らすほどに取り縋る。
「ふ、二股なんて、わたし、しません! 彼氏には振られました!」
「あ、あのっ、カオカさまは、ぼくのご主人さまなんですよ!」
千里も千里で、フォローのつもりなのか天使の微笑みで拳を握り、背後から大砲を打ち込んできた。わたしはがっくり頭を垂れた。あああ。もうだめだ。千里のばか。
こわごわと縋っていた指を離して、顔色を窺った。うう、先輩が、いろいろと理解を諦めたような表情をしている。
もう一度お守りみたいに、近くにあった千里の手をぎゅっと握りしめる。すぐに握り返してくれる。律儀だ。
わたしと千里を眺めていた先輩は、小さくため息をつくと、しっしっとばかりに手を振った。
「もーいいや。嘘でもなんでも、あとで説明してくれればいいよ」
あとで。ということは、先輩はまだわたしと話をしてくれるらしい。
……今日が終わっても、また、会える。
すとん、と。からだの力が抜けた。緩んでいた涙腺から雫が一粒、ほろり流れて、ため息になる。
安心したことでようやく、つないだ手にも意識を向けることができた。……そういえば千里は、お腹がすいていたのだっけ。帰るまでに時間がないなら、やっぱり「食事」は要るのだろう。
今さら隠すこともない。この子はわたしの恩人だ。先輩に見られてしまったとしても、この子を無事に故郷へ還すためなら、しかたない。自業自得だ。食べられるのは、えっちなキスを見られるくらいは、諦めよう。
涙で湿ったカーディガンの袖を握って、ほうっとひとつ息を吐く。漆喰の壁に映る光は赤く、日没まで間もないことを教えてくれる。遠い風鳴りに、肌の涼しさを思い出して身震いした。
「冬子先輩」
儚い瞬きが、わたしを捉える。夕時の光で、先輩の肌も、淡い西陽色をまとっていた。
「今からわたしがすること見ても、嫌わないでいてくれますか」
きっと、先輩の前で、さんざんおかしくなってしまうけれど。「好き」になってもらえなくてもいい。「嫌いじゃない」ままでいてくれれば、それだけでいいから。
先輩はおかしそうに肩をすくめた。
「や、だってなにするのかわかんないもん。とりあえず、試してみたら? 怒らないから」
だからもう泣かないでね。と言葉にしなくても先輩の声が聴こえた。懐かしくて、滲みそうになったものを震える息に押し込める。
そういえば、そうだった。
先輩といるときには、お互いにこうして、話している言葉以上のことも通いあうような気がしていたのだ。温かなあかりの底、静けさを結わえてつながる幸福感を、恋より先に愛していた――そう、思い出した。