目次

千里の裾野

プロローグ
1
第一章
1 / 2 / 3
第二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6
第三章
1
第四章
1/ 2
第五章
1
第六章
1
第七章
1 / 2 / 3
第八章
1 / 2 / 3 / 4 / 5
第九章
1 / 2 / 3 / 4
第十章
1
第十一章
1 / 2 / 3 / 4
第十二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8
エピローグ
1(完)

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第五章 / おひさまを待ち望むのは、わたしだけ

 
1

 吹きとおる風にカーテンも髪もスカートも、ふくらんではためいて雨を待つ。電卓を叩く指を休めると窓際のけやきが騒いで涼気が鼻をくすぐった。空のむこう、ひとすじのくらい茜がゆっくりと山の裾野へとけていく。
 わたしの心を写したような天気だった。優柔不断な雨雲と、ひびわれた隙間から偶さか覗く、風透きとおる清んだ空。初秋の前線に翻弄される、夕べの野花やすすきたち。校舎裏の虫のこえ。頬に落ちかかる髪を耳にかけなおし、足首を重ねる。雨は降りそうで降らない。折りたたみ傘の出番は帰るころにもなさそうだ。
 空模様と裏腹に、祭りの準備に騒ぐ校内はふわふわ浮かれて賑やかだ。必死なのは実行委員と生徒会と教職員くらいで、あとはみなみなお祭り騒ぎの前夜祭。誰を呼ぶ、誰と回りたい、日中はそんな恋の話も盛んだったけれど、表向き失恋直後のわたしは一応気を使われていたらしい。友人からも積極的に恋の話は振られなかった。ちょうどよかった。楚々と笑って背景に撤するだけなら気も楽だ。
 恋の話と聞いてしぜんひとりで思い出すのは体育倉庫の白壁と、火のついていない煙草をくわえて跳び箱に腰掛けていた先輩のつまらなそうな横顔と、埃くさいマットの犬小屋でわたしを毎日待ち続け、わたしみたいな作り物でなく楚々と微笑むまっすぐな少女……姿の少年くらいのものだった。
 湯のみの底に沈んだ茶葉のように、沈んだ感情の残滓を拾い集めては弄ぶ。
 男の子、と言い切るには躊躇するあの子のことを、思い出してはつま先が迷う。押しつけられ吸われた唇のやわらかさ。背を這いまわるような見知らぬ快感に震えては、わたしに助けを請う瞳。縋りつかれて首元にかかる荒い吐息。何度も何度もわたしの目の前で放たれた雄のあかし。それでいて少年の純粋さを失うことのない、褒められたときのはにかむ笑顔。
 わたしは千里をどうしたいんだろう。あの素直な信頼に応えるやり方を、馬鹿の一つ覚えみたいな餌づけ行為しか思いつかないだなんて。それどころか、悪いことを教えようと考えているなんて。たちの悪い飼い主だ。よくないことだとわかっているのに、放置することもできないのだからなお悪い。先輩が迷い込んだわたしにしてくれたように、適度な距離を取れたらいいのに。

 ……計算を間違えた。
 リセットし、またぱちぱちと電卓を叩く。集計表に途中経過を書きつけながら思いに耽る。湿気で遊ぶ毛先が黒ぐろと椅子の背に打ちかかっているのを鏡代わりの窓にちらと見た。ボリュームのないまっすぐな髪。ブローでなんとかできるのは湿度の低いときだけだ。ふわふわで量の多い髪質には憧れがある。

――冬子先輩。
 この生徒会室では忌避されて、ときに嫌悪感や義務感をもってしぶしぶ囁かれるあの人の名前。そのたびにわたしの心はふるり震える。
 わたしは、彼氏とそれはもういろんなことをしたけれど、一度たりとも彼に恋心は抱かなかった。
 今ならわかる。ひどいことをしたのだ。好きと言ってくれた相手に、まともに向き合わず傷つけた。彼はわたしに、まがりなりにも恋の告白を――わたしがあんなに怖がっていた行為を、実行できた勇気ある人なのに。
 演算のボタンを押して、別の数字を打ちかけて、ぱち。と、指先が止まる。蛍光灯の照らすものは手元の影だ。放課後に呼び止められて告白された、あの日の廊下に落ちていたうららかな初夏の日射しはもう、同じころの時刻だというのにどこにもない。
 ペンを置く。ああ、と、ようやく腑に落ちた。だから振られたのだ。夏の眩い陽射しが薄れたせいで、脆い仮面が剥がれて落ちた。わたしが彼を避けて黙って体育倉庫へ向かうたび、つるべ落としの夕焼けで夜があまりに身近に迫るから、ともに長い夜を越えられないことが彼にもわかってしまったのだ。つめたいアスファルトで踏まれた蝉の死骸のように、無残な現実味を帯びて。
 恋は夢だ。夜に続かない夢は見られない。
 だって、わたしは知っている。
 雪残る春の暮れから気がつくと心にいつも寄り添っていたあの感情。陽だまりにぽとりと落ちた花の影を踏みながら花びらを数えるような心もち。
 合鍵をもらった放課後に雨が降っていたから、しばらくは雨のにおいをかぐだけで、手のひらに触れた金属片の冷たさを思い出して胸がきゅうと締めつけられた。煙草臭対策によく吹きつけられた消臭スプレーの合成香料をかぐと浮き浮きした。五感が組み替えられる不思議を知った。先輩と同じ校庭の土を踏んでいるだけのことにも運命を感じて温かくなって、いつだって、会話の終わりが満ち足りながらも寂しかった。朝から晩まで、いてもたってもいられない浮かれた夏の夜みたいなふわふわしたつま先立ちの足取り。
 そのすべてを、与えてくれるあの人に、知られてしまうことがどんな作り事より怖かった。
 わかっていたつもりだったけれど。謝る機会すらきっともう与えられないけれど。……彼とはすっかりおしまいだ。わたしはもともと男子全般が苦手だったし、「仲の良い友達に戻る」なんて優しい未来は待っていない。改まって話すようなこともおそらくない。わだかまりを超えてなお、うちとけて笑えるほどには二人とも大人じゃないし、だから性急にからだをあわせてしまったんだろう。
 でも……そうなると、処女を捨ててしまった晩夏の今、余計に不思議なことがある。
 冬子先輩の落ちついた素っ気ない声。からかうときに見せる笑顔。すらりとした手足をぶらつかせて腰掛けた跳び箱から、小窓を眺めて上向いた白い顎。試験前で早く上がれた若葉の頃、午後の薄い光の下で、壁にもたれて会話もなしに、美しい横顔を見つめているのが好きだった。
 一緒にいたいとは思った、気持ちを伝えられなくて苦しかった。じゃれあうように薄い肩に腕をまわしてみたかった。でも、それ以上の意味で、からだを求めたいと思ったりはしなかった。せいぜい、キスをしたら気持ちがいいかなあ。煙草のにおいがするかなあ。とドキドキしながら可愛く夢見たことがあるだけだ。
 恋の相手とつながりたいと思うこと。気持ちを抱える甘やかな苦痛。そのふたつをどの角度で順番で、どんなふうに並べてみても、わたしには重なる場所が見つけられない。
 それとも想いが通じ合えば、いつかそういうことをしたいと願う日が来るのだろうか。先輩を慕う気持ちの糸、握り締めるだけで喜びと切なさに満たされる、青紫の糸をくるくると手首に巻きつけ手繰り寄せていけば、燃える火鉢の底をがりがりと掻き立てるように急かす、もどかしい衝動の在り処へとやがて続いていくのだろうか。
 自分以外の誰かに肌を触らせて、少しだけ気持ちがいいな、と感じた経験もして。
 快感なんて、からだの勘違いだと思った。
 慕情と欲情は違う。全然別の山肌から滾々と湧く、似ているようで組成の違うなにかだ。世界のほうが勘違いをしているんじゃないだろうか。全く別物である衝動を同一のものと定義して、何億人もの人々が壮大な誤解をしたまま何百年何千年も生きてきたなんてことも、ひょっとしたらあるんじゃないだろうか。だってそうでなければ、一昨日からわたしを惑わしているこの感覚も、説明がつかないことになるわけで――
「桧山さん具合悪いの? 顔赤いし、手止まってるけど」
 向かいに座る書記の治田さんが訊いてくるのにはっとして首を振った。電卓の数がおかしな桁になっている。
「あ、ううん。ええと、ちょっと……そういう時期なだけ。ごめん」
 声を落として囁けば、女子ならではのなにかを察して治田さんは心配そうに頷いてくれた。目を伏せて、心の中で謝っておく。笑えるほどに、こういう嘘つきばかりがわたしは上手い。
 ……そう、治田さんは正しい。顔は赤い。自覚している。近くにいる人には小細工も無駄だ。現に気づかれている。
 あぁもう、なんてことだろう。どうしよう。
 あれこれ考えて気を逸らさなければいけないくらい、今日は行かないと決めたせいで、かえっておあずけの千里に欲情しているのだ、非常に恥ずかしいことに。
 いやだ。これじゃあわたしのほうが犬みたいだ。
 うん。わかってる。もう自覚してる。未熟で綺麗な千里の痴態を毎夕、目の前にして、男を知ったばかりのわたしのからだはあっけなく興奮してしまった。だってだって遠慮なく間近であんな、兄がひっそり見ていたようなDVDよりも、クラスの進んだ子達が交換しているらしい動画よりも、多分ずっと生々しいものを見せつけられたのだ。免疫のない普通の女の子がこうなったっておかしくないと思う。そう。わたしが特別いやらしいわけじゃないのだ。うん。そう。
 と、ともかく正直に告白してしまうのなら、わたしはあの子を欲しいと思ってる。自分だけの犬。どんなに努力しても手の届かない美貌を持った幼い彼が、従順な犬のように、わたしひとりの命令をずっと誠を抱いて待っている。今だってあの子はきっと、何度も見せ付けられたあの顔で、あの手の動かし方で、時折自分を慰めながら、わたしに褒めてもらうのを待っているのだ。そう思うだけで心臓がどくどくと胸を叩きはじめる。こんなの無理だ。抗えない。なんという蠱惑。
 やっぱり、こんなどうしようもなさが、冬子先輩への大切できれいな気持ちと一緒だなんて考えられない。
 だけど、とわたしの中の一部が囁く。千里に抱く感情は、品のない性的な欲求だけじゃない、性的な欲求だったとしてもそれはけして汚らわしいものなんかじゃない。もっとなにか、お日様みたいなふかふかした温みがあって、また違った意味で汚したく、ない、ような……
 ふと窓を水滴が伝う。ついで米を撒くような音が耳を打ち始めた。
 雨だった。
 無駄な傘は持たない主義だと威張っていた副会長が、情けない声をあげていた。
 容赦なく、ぬかるむ土に染み込むみたいに、降り出した雨は世界を覆う。ぱらぱらと、やがてざんざんと。
 わたしの中の澱んだものを洗い流すように、降りしきる。
 千里が現れて五日目の金曜日。週末の放課後が、ぼんやりとしたわたしを取り巻いて緩々と時計の針を走らせていく。

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