第二章 / わたしは千里を拾うことにする
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とはいっても気が重い。
はあ、とため息をついて倉庫の扉に手をかけた。鍵は昨日かけ忘れたままになっている。さわさわという梢の囁きを背に、細い隙間から中を覗く。万にひとつ、先輩がやってきた可能性を夢見ていたものの、例のあの子がマットで寝ているだけだった。
そう。やっぱりいた。
昨日現れたときと同じように、裸足に羽織一枚の格好で、すうすぅ寝息をたてている。後ろ手に引き戸を閉めて、忍び足で近寄った。殺しきれない足音が西日を呼んで埃が踊る。頬にはうっすら涙の跡。
小さな棘が胸を刺す。鍵はかかっていないのに、ずっとここにいたのだろうか。昨晩は涼しかった。服一枚では寒かったろう。まあ、なんだか暖かそうな部位はあるけれど……と、頭部に視線を移す。見間違いではなく、黄な粉色の三角耳も、腰には尻尾もまだあった。記憶違いでも夢でもない。天井を仰ぎたくなるものの、一応、一晩経って少しは頭も冷えている。本物だとは限らないではないか。昨日のわたしはかなり動転していたし、勘違いして過剰に驚いただけかもしれない。腰に手をあて、ためつすがめつ観察する。
そう。まずは疑うべきだった。果たして本物なんだろうか? ってことを。耳はつけ耳で、例えばわたしのカチューシャみたいなものかも。尻尾だって、コスプレや仮装の類かもしれない。文化祭の準備中なのだし。そんな仮装の申請は受理した覚えがないけれど、そう考えた方がずっと自然だ。突然現れたのは……そう、それも、文化祭のリハーサル。さすがに無理がある、と心の何処かで声がする。構わない。まずは平常心を優先だ。
そうだ。平常心といえば、パニックに止めを刺した例の下着のことを思い出す。思い出したくなかったけど、思い出したのだから仕方がない。つまり、例の下着というのはその、スカートの下、いやこの子はスカートじゃないけれど、とにかく上半身じゃない部分の話。なにが言いたいのかというと……その、ふんどし(ああ顔が熱い)、の、下にあったのは本当に男の子のものだったんだろうか。ということだ。
派手な和服に包まれた腰あたりの悩ましい丸みからつづく、砂を踏んだようにそっとくびれた腰。なよやかに組まれた両足首。ふくふくの頬にかかる毛先、悩ましげな半開きの唇。眉を顰めて首を振る。そうだ。おかしい。こんなに可愛い子が男の子のはずがない。そんなの女子の立つ瀬がない。
確かめようそうしよう、――と、なぜだか思ってしまった。
そんなことどうでもいい、と普段のわたしには一蹴されそうなくだらないことなのだけれど。
一言で言えば、魔が差したのだ。
後になって思えば、それは、本当に人ならざる魔の誘惑だったのかもしれない。
遠い喧騒。体育館周りでは未練がましい名残の蝉がシーツクツク……と鳴いている。ざわざわと穏やかな夕べの風が倉庫の屋根を吹きすぎていく。
まるでままごと人形の服を剥いでみるような単純な欲求が、嫉妬心とない交ぜになって背中を撫ぜて押してきた。
覆いかぶさるようにマットに手をつき、結んでいない長髪でくすぐってうっかり起こすことがないよう耳にかけた。小さな頃、ミカちゃん人形の着せ替えで、初めて服を脱がせたときの気恥ずかしさに似た緊張がよみがえる。確かにわたしを突き動かしていたのは、ままごと遊びの無邪気さだった。
そうっと、そうっと、肌に爪が触れないように、足首近くの着物だけをつまみ上げて、脚とのわずかな空間に指を差し込むと、付け根側へと滑らせる。
早鐘を打つ胸が、焦りと怯えをじわりと熱に換えていく。まろみを帯びた膝頭。吸い込まれそうなふとももの隙間。そして、両脚のともに行きつく先にあるものは――。
「………」
呻き力なく肩を落とす。
やっぱり、ふんどし。和服にはふんどし。
そして、間違いなく、そこには男性器特有のしわと膨らみが存在していた。緩い襟からちらりと見える胸元も平らだし、どう見ても、肉体的に男の子だ。
深くため息が漏れた。
つらい。男の子に容姿で負けるとかつらいどころの話じゃない。すべすべでシミひとつない白磁のふとももなんて、至近距離で見つめるほどに残酷だ。
不意に、なにかが光った。改めて股間部分を確かめる。よく見ると、銀の糸でなにか複雑な模様が縫い取ってあった。薄暗くてよく見えない。好奇心のまま顔を寄せると、兄や、二ヶ月弱の間彼氏と呼んでいたクラスメイトから漂っている「男」特有のにおいがして、ああ、間違いなく男の子なのだ、と実感する。少女のような見た目でも、とりまく空気が少女とまるで違う。日中はまだ残暑の厳しさがあるせいだろう、脚の間に細かな汗が滲んでいた。それでも、甘酸っぱい蒸れは不快どころか、不思議な落ち着きをもたらしてくれた。もう一度空いた手でこぼれ髪を耳にかける。彼氏の腕に包まれて抱いたのは仄かな拒否感情だったのに、同じ「男」のにおいでも、ひとりひとり、なにかが違うのだな、と思う。なにが違うのかは、わからないけれど。もしかして、肌のにおいの好き嫌いを、大人たちは相性と呼ぶのだろうか。
りん、と。鈴音がした。
飾り紐に括りつけられた小さなふたつの金の鈴が、鳴っているのだと気がついた。手元の服に皺が増え、上半身が身じろぎをする。それが何を意味するのか、気がつくまでに数秒を要した。
「あの……なにをなさっているんですか?」
頭上から穏やかな音色が聴こえて、今更ながら硬直する。――なぜならわたしは、下半身の着物をつまみ上げ、ふんどしを凝視したままの体勢だったからだ。