第六章 / 未明ヶ丘冬子は桧山香緒花と出会う
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未明ヶ丘冬子は良家の娘だった。
父親の出自が、そのまま育ちを表すのであれば、少なくともそうだった。
けれども初老の父親は、なぜだか彼女と苗字が違っていたし、学校行事に参加したことはないし、なによりめったに帰ってこなかった。いつもは明るい母が不意に泣き出したのを慰めながら、父の帰りを待っていた九月の夕べ。バス停に揺れるすすきの穂色を、秋になるたびどこか映画のように思い出す。
なぜ、うちだけ父親が傍にいないのだろうと思ってはいた。それだけだった。寂しいなりに幸せな日々でもあった。長くは続かない仮初めの幸福。秋口の裾野に浸る夕陽のように、眩くて鮮やかで、あっという間に消えてしまう。
夜の訪れは遅くなかった。ほどなく孤独な愛人生活に耐えかねた母の笑顔は掌で氷の解けるように涙に変わり、中学に上がる頃には、登校の傍ら、ゴミ捨て場に運ぶ酒瓶の袋が増えていった。制服を洗濯しても洗濯しても、ヤニのにおいがこびりついて取れなくなっていった。
それでも、近所に住む祖母がなにくれと世話を焼いてくれた頃はまだよかった。繊維に染みついた煙草臭が原因で教師には叱責されたし、教室では遠巻きにされていたし、「売り」の噂を「父だ」と否定するのに疲れきってもいたけれど。
一人はあまり嫌いではなかったし、雑音は音楽で打ち消せたし、祖母のつくる食事は美味しかった。
中学卒業と前後して、祖母が亡くなるまでは、そうして静かに乗り切った。
煙となって曇り空に昇っていくのを膝を抱えて見守った、春の午後。遠い峰にかかる霞のように曖昧だった予感は、実感となって冬子を空しさでそっと満たした。母娘で葬儀に及んでも、迷い子のように萎れた母は、愛する男の来訪ばかりを待ち詫びていた。つまるところ母は、一人娘も「父をつなぎとめるペット」くらいにしか愛してはいないらしい。と悟らざるをえなかった。
高校へ進学しろと言ってくれたのも、一緒に暮らしていた母親ではなく、遠くに住む父の方だった。父はいつでも、冬子の学費だけは惜しみなく援助してくれた。母は女に学など不要だと笑っていたけれど。いつの時代だ。娘の方が笑ってしまった。
幸い、頭の出来は悪くなかった。適当に勉強したら、父の喜びそうな偏差値の高い公立高校へ進むことができた。染みついた煙草臭さはまたも彼女を孤独にしたけれど、その頃には噂を笑い飛ばせるふてぶてしさが備わっていたし、いっそ開きなおって好きな格好をしてしまえば意外にも外れものでいるのは悪くなかった。留年しない程度に、退学させられない程度に、好きな時に学校に来て、好きなように過ごす。それでいいなら、泥酔して泣き暮らす母の住まいよりかは心地いい。父はもはや愛人宅へ寄りつかず、娘の冬子にだけ街でひっそり会うようになっていた。無理もない。冬子も納得していた。
いつからだったろう。
高校生になって、怜悧な容貌に女性の柔らかみが添えられた頃からだろうか。小さくなった下着を買い換えたあたりだろうか。化粧品を揃えたせいもあっただろうか。
……いつからだったろう。外で食事をしたときの父の物腰から、うすら寒い戦慄が、ひたひたと押し寄せるようになったのは。
――あれは父です。やましいことはありませんが、なにか。
指導室に呼び出されるたび、丁寧に否定してきた自分はなんだったのだろうか。笑うしかない。雪の舞う街中で甘い笑顔で、春になったら旅行に行こうと父は誘う。あの目は。肩に手を置く仕草はなんだ。ああ、本当に笑うしかない。どうでもいい。
ドライな性質だと信じていたのに、噂に甘えて煙草に逃げた自分自身にも驚きあきれた。容姿以外も母に似ているのだ。好かれなくとも、愛されなくとも、やはり。
そうして今からおよそ半年前、迎えたくない春を控えた三月のことだった。
いつものようにポケットに煙草を突っ込んで、どこよりも冬が残っている、体育館裏の隠れ家で今日も夜まで過ごそうとした矢先。
薄青い空の広がる校舎影の小道で、とぼとぼと歩み来る女子生徒と出会った。どこかで見覚えがあった。小柄で、絹のように黒々とした髪を背に落ちかからせて、冷えた外気で頬を火照らせながら……冬子に気がつくと、一瞬怯えてから、真っ赤になって涙を拭った。そこでようやく、生徒会の一年生だと気がついた。
さやかな風に細い髪をさらりさらりとなびかせたその後輩は、桧山香緒花と名乗った。
未明ヶ丘冬子の孤独な十七年間を温めるように、真っ白な純粋さを湛えたまま、壊れやすい優等生の仮面を大切そうに抱きながら。嫌悪するでもなく、推し測るでもなく、ただ慕ってついてきた。
もちろん、最初から織りこんでいる。
桧山香緒花の温かさも、祖母のごはんや母の笑顔のように、夕暮れのひとときにしかない刹那のものだ。宵闇が訪れる前に、冬子の前から消えてくれていい。それでいい。それなら怖くない。
人は経験から学ぶのだ。幸い頭は悪くない。
遠くから眺める夕陽の美しさを、未明ヶ丘冬子は誰よりも痛いほどに知っている。