第十二章 / わたしが千里と遊んでいたら、あっという間に日が暮れる
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千里はゆったりと瞬いてから、愁眉を開いて微笑んだ。警戒を解くのにあわせて、強張っていた肩の力も抜いたらしい。
「はい」
と従順な犬の頭をちらと見せて、はだけた襟を掻き合わせながら退いてくれる。ふわふわの赤毛がさらりと踊って、汗ばんだ鎖骨をくすぐる絵面は少女よりも艶やかだ。
同時に先輩が倉庫の扉を閉めたらしい。砂利を削る低い響きがふつりと止んだ。白い明かりが三角形から線になって、マットの縁で糸になり、やがて消える。
薄暗い。枝鳴りも屋根越しのくぐもった雑音になる。倉庫全体は、小窓から差す西日だけを仄明かりにして、一滴の茜を浮かべた夕闇に沈んでいた。乾いた響きがして、顔を上げると平均台にビニール傘が放られていた。水たまりをつくっている。逆光ではなくなった分、先輩の表情が、前より少しはよく見える、ような気がした。
「っ……、ぁ、の」
さんざん喘いだ喉は枯れ気味で、いつものわたしの声じゃない。ぎゅっと太ももに力を入れるとねちゅりと濡れた音がする。髪も服装も乱れたままだ。繕えそうな余り糸は手もとになくて、どんなに薄い虚飾のヴェールもまとえない。つるべ落としの水底には、愚かで恥ずかしいありのままの桧山香緒花がいるだけだ。
それでも、わたしの犬がそばにいる。今さら無様は晒せない。どんなにみっともなくても、勇気を、出さなきゃ。
「先輩、あ、のっ――」
「あ」
空気を読まずになぜか千里が、間の抜けた声をあげた。せっかくの意気が挫かれて脱力する。抗議の意味で振り返ると、千里は小窓の光をぽうっと見上げていた。囁くように名を呼んでもうわの空で、両耳をピンと立てて、鼻を引くつかせている。
「千里?」
「潮のにおいだ……」
そうしてやおら四つん這いになると、マットに鼻を沈めて、クンクンにおいを嗅ぎはじめた。間もなくぴくりと犬耳が跳ねる。千里は這ったまま、わたしのタオルと下着がある側の壁際へ向かった。まるで電信柱を嗅ぎまわる犬だ。豊かな尻尾がぶんぶん左右に揺れている。
わたしも、そしてどうやら先輩も、不意のことで呆気にとられて千里を目で追うことしかできていない。
千里はしばらく周囲を見回してから顔を上げると、すちゃりとお行儀よく正座をした。宙を見つめて頷いて、柏手のように小さな両手をぽふ、ぽふと合わせると、なにごとかを呟いた。それから、壁に向かって深く、礼。今度は腕を天へ差し上げて、耳慣れない響きを唄うように口ずさむ。そうして再びの、柏手もどき。
尻尾は正直、大きく振れて、最後に小さくガッツポーズ。
満足げに微笑んで振り返った千里は、わたしと先輩、二人の視線に気がつくとたちまち顔を真っ赤にして両手をついて頭を下げた。いわゆる土下座だ。三角耳まで力なく、へにょりと垂れて髪に伏す。
「あ、あああぁぅ、す、すみませんっ。あの、歓楽へ還る準備が整いましたので、この先半刻ほどして潮が引きましたら、還ります。大切なお話のお邪魔をしてしまい、あ、あの、大変失礼いたしました!」
最後の「いたしました」に被って、思いきり大きなお腹の音がぐうううううぅ、と鳴り響いた。
沈黙。
千里は無言で、両腕ごと頭を沈めて平たくなった。潰れた土下座状態のうなじから頬から耳裏までが夕陽の色より赤く染まる。湯気の幻まで見えそうだ。涙ぐんでもいるだろう。見えなくてもそのくらいはもうわかる。
「千里?」
と、とりあえず彼の居たたまれなさをフォローせねば。ご主人さまとして。
「……はい」
「お腹、すいたの?」
さっき食べたのに、と言外に含みを持たせて訊ねれば、意外にも千里はこくんと頷いた。
「え、あの。はい。海を渡るのにも力を使いますけど、召還の儀をしましたので、お腹は、とってもすきます……」
すみませんすみませんと筆でべったり書いたような泣き顔で、千里はおそるおそる上目遣いで訴えてきた。いや、そんな顔されても、「お腹がすいた」ってことは、あの「食事」を、今からしたいってこと、……になるんです、よね。ここで。今。それは、あの、ちょっと無理です。
可愛い涙にほだされないよう目を逸らす。
さり気なく、先輩が割り込んできたのはそのときだった。
「よくわかんないけど」
平坦に呟いた先輩の手首で、ブレスレットがちゃらりと淡い光を弾いて呑みこんだ。右手がポケットに突っ込まれている。
「飴ならあるよ。要る?」
冬子先輩はわたしたちを一瞥し、煙草の紙小箱と一緒にのど飴を出して見せた。千里はぱちくり瞬いてから、こちらに助けを求めてきた。わたしも千里の視線を受けて、どう答えるべきか思案を……って、違う。
違う違う。
あまりに千里が突拍子もない行動をするものだから、深刻な告白をしかけていたのを忘れていた。忘れていたことも信じられない。愕然としかけたところで首を振って持ち直し、さっき途絶えた話の続きに無理やり意識を引き戻す。
「あの、せんぱ――」
「……要らないならいいけど」
先輩は飴を仕舞って、肩を竦めた。それから一呼吸だけ間をおくと、改めてひととき、わたしを見た。
先輩と目が合ったその瞬間、……時が止まって、言葉は遅れて耳に届いた。
夕陽の下で赤い唇が動く、美しさに、ばかみたいに見惚れてしまってから――冬子先輩への気持ちが、恋なんだと、どうしようもなく思い知らされる。
秋の戸口に佇む冬子先輩は、初夏の頃よりまたいくらか痩せたらしい。ノータイでふたつボタンを外したブラウス。長い首、細い顎。気だるそうなブラウンの睫毛。緩くカールした栗色の髪は、もつれて豊かな胸に落ちかかっている。
それでも。
先ほどの言葉はちゃんと、わたしの喉笛を切り裂いている。冬子先輩は、
「お楽しみのとこ悪いね、香緒花」
って、……言ったのだ。
目線の落ちた手の甲は真っ白だ。心臓が、握り潰されたみたいに息苦しい。からだの芯まで凍りついていく。
硬直したわたしには眼もくれず、先輩は狭い倉庫を横切ると、かつての定位置――マット脇にある、六段跳び箱の埃を払った。
かたん。と、腰かける、音がした。
先輩は小箱から煙草を引き出し、長い脚を露わに組んでぶらつかせている。そして思い出したように顔を上げると、髪をかきやり、無造作にわたしと千里に視線をよこした。
「ああ……。ん、あたしは気にしないでいいから、続けて。ただし、」
――日が落ちるまでね。
まるでわたしが宿題でもしていたような口ぶりで。二人で過ごす放課後が、夏のあいだもこれまで通り続いていたかのように。
なんでもないことのように付け足して、先輩は煙草をくわえた。けれども火はつけずに、西日の染み入る小窓を眩しそうに見つめた。