第十二章 / わたしが千里と遊んでいたら、あっという間に日が暮れる
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いまの、こえ、
……わたし、しってる。
暴れ出した鼓動と、血の気がざあっと引く音が、入り混じり秋風にとけていく。
咄嗟に額をマットに埋めて擦りつけ目を瞑った。外気の涼しさが、現実感という名の恐怖で皮膚をちりちり炙りはじめる。口元に押しつけた手に力をこめる。
今しがた耳を抉った愛しい声音を持つひとに、もう一度だけでも会いたくて、わたしはここに毎日通っていたはず、だった。
なのに、
どうしても、怖くて顔を上げられない。
「……ねえ」
もう一度。
同じ声が、
――未明ヶ丘冬子先輩が、感情の読めない声で、わたしを呼んだ。
「なにやってんの、香緒花」
懐かしい掠れたアルトに、ぎゅうと胸まで捩じられたみたいに、喉の奥が痛くなる。
なに、って言われても、見てのとおりだ。
つまり、だから、わたし、は……――
「……ぇ、」
そこでわたしは、背中に覆いかぶさっていた体温がもうないことに、はたと気づいた。涼しいと感じたのはつまり、秋風のためだけではなかったわけで、……思い返せば、そう。わたしの名前が呼ばれたのだと気がつく前、扉が引き開けられた直後――温かい犬の体温は、にゅぽん、とかすかな水音をたてて、抜けて、遠ざかっていたのだった。
おそるおそる、薄目を開けて、マットにつけた額を持ち上げてみる。
まず視界に飛び込んできたのは、ふさふさ尻尾の毛束だった。次いで鮮やかに牡丹柄の染め抜かれた、朱の羽織。
火照った頬を涼気がくすぐり、そこでようやくわたしは、はっと息を呑んだ。
千里、が。
かたかた震えて怯えながらも、わたしを庇うように腕を広げて前に出ていた。
わたしが現実を見ないふりしているうちに、先輩の視線と興味も、手前へ移っていたらしい。
代わりに今、射抜かれているのは千里だった。
「ひっ、……ぅ、」
涙声を喉に押し込め、それでも千里は怯まずに、わたしを背中に隠そうとしている。
整った顔立ちの冬子先輩に無言でじっとり見下ろされるのは、わたしでも怖い。切れ長の目が値踏みするように、千里を上から下まで余すところなく眺めている。
小さな背中は、……それでも、わたしの前から一歩も退こうとしなかった。
薄汚れた靴下の甲を重ねて、もう一度だけ目を瞑る。
力の入らない両腕を支えに、肩から上を持ち上げた。乱れた黒髪がそれでもするりと、カーテンのように頬を滑り流れる。腰の高さが変わったことで、体液が一気にとぷんと溢れてマットの染みを濃くしてしまう。慌てて膝を閉じたところで、水音は隠せない。しばらく羞恥に俯いてから、また、そうっと睫毛を上向け、目の前の羽織姿を見上げた。
秋のはじめ、静かに枝葉を打つ天気雨のような。
眩しい背中がわたしの澱んだ瞳に映る。
この子の「七夜の試練」なるものが、何を指していたのかなんて結局のところわからない。
でも。
そもそも、何も知らされていない、無垢な可愛い少年が、毎日の特殊な「食事」に付き合ってくれる人を見つけて、その人に性欲の処理方法まで教えてもらって。異形を晒してほぼ一日中眠り続けるような環境で、傷つけられずに七日間をやり過ごせる確率は、……どのくらいあったのだと思う、香緒花。
いくらでも想像のつく身の危険を、この子がどこまで覚悟していたのかはわからないけれど。とにかくこの異世界に、ありったけの勇気を使って飛び込んできただろうことくらいは、想像できたはずなのだ。
だから、……臆病なのは最初から、桧山香緒花ひとりだけ。
目元に手首を押しつけて、余計な水分はなかったことにしてしまう。
可愛い犬が必死に頑張ってくれているのに向き合いもせず逃げ出すなんて「ご主人さま」とはいえないと思う。いくらわたしがだめな子でも限度はある。処刑台に自ら首を差し出すくらいでちょうどいい。
後ろから、羽織の袖を握って引いた。汗で濡れた布地に皺が寄る。振り向いた千里に小さく頷いて、大丈夫だよと微笑ってみせる。
「カオカさま……」
「大丈夫、だから。わたしの、」
あのひとは、わたしの好きなひと。だから。
……その好きなひとに、二人の思い出の場所でこの犬と一日中セックスしてましたと報告、しなければならないのだけれど。
さらりと流れ落ちた黒髪からも、赤毛のうなじからも、二人のにおいがして、もう笑うしかないような気がした。