目次

千里の裾野

プロローグ
1
第一章
1 / 2 / 3
第二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6
第三章
1
第四章
1/ 2
第五章
1
第六章
1
第七章
1 / 2 / 3
第八章
1 / 2 / 3 / 4 / 5
第九章
1 / 2 / 3 / 4
第十章
1
第十一章
1 / 2 / 3 / 4
第十二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8
エピローグ
1(完)

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第一章 / わたしが千里と出会う

 
3

 ただの口づけと思いきやあっという間に吸いつく力が割り込んでくる。半分だけ開かれた唇から強引に滑り込むべたつく舌は長かった。柔らかくて小ぶりな唇の甘さに似合わず、湿り気を帯びて交わる息はぬるりとぬめって獣くさく、においごと唾液を飲みこまされる。
「ぅぐっ!? んっ、んふ、んふぁ、っ、ぅっ」
 そのまま咥内を吸い上げられるようにちゅうちゅうと、頭を抱えて口を吸われる。
 いや意味がわからない、意味が、あとなんかこの獣くさい、なにこれなにこれ、とぐるぐる熱くかき混ぜられる思考をぼかすように膝と膝が、歯と歯が不器用に触れる。その合間にも、はむりと唇をはさまれてはまた吸い上げられる。胸の悪くなるような入り混じったにおいにあてられて、膝に力が入らなくなって、き、
「ふぅ」
「ぷはっ!はっ、はぁ、はっ……」
 あと一瞬でも長かったら確実に気を失っていただろう一歩手前で、ようやく、長いくちづけから解放された。膝から一気に力が抜ける。マットに両手をついて、必死で酸素を補給した。
 息も絶え絶えのこちらに対し、謎の少女は紅潮した肌を西日に染め、陶然と口元に触れて尻尾をゆっくり左右に振っていた。気のせいか鼻歌まで聴こえてくる。思わず見ていたわたしに気づき、にっこりと頬を蕩かせて、ふぅっと満足げな息をひとつ。
「……突然、失礼いたしました。ご馳走様でした」
 ぺこりと頭をまた下げて。
「じゃあもう一回、いただきま――」
「ちょっ、いやっ、 来ないで!」
 頭より先に腕が動いて近づくからだを無我夢中で強く押す。存外に手ごたえは軽く、彼女はこてんと倒れて転がった。心配するよりパニックのあまり泣けてきて、そのまま壁まで後ずさる。
「だ、だめに決まってるでしょ……! いきなりなんなの、やめてよ! 誰なの!? なによなんなの、いきなり出てきて、こんなことして、もうわけわかんない!!」
「う、ぅえっ、あっ」
 ヒステリックな怒鳴り声に怯えたのか、涙声が耳に届く。泣きたいのはこっちだ。そりゃあ初めてのキスではないけれど、安売りしたい唇でもない。よりによって冬子先輩との大切な場所でなんて最低だ。
「えっ、う、え? すみませ…」
 罪悪感を抱かせるためだけにあるような戸惑った泣き声が耳に痛い。守るようにかざした腕の隙間から見遣れば、耳と尻尾がピンと立ち、潤んだ瞳のふちに涙が盛り上がっている。後ろに両手をついて、ぺたりと座り込んだ脚の間に白いものがちらりと覗いていることに気づく。
 小さな声が唇から漏れた。腕を下ろす。
「……え?」
 下着と思しき、白い布が不自然に盛り上がっていた。一点に向けて滑らかな布地の皺が集中している。
 しばらくその箇所を観察し、不意にその意味を悟るとわたしはゆっくりと額を覆った。
 めまいがする。あれは、明らかに男性器のそれである。
 しかも、ふんどし。和服にはふんどし。正しいのかもしれない、しかし、どう見ても美少女であるところの、わたしよりも白くてきめ細かくて艶やかで細いふとももの交わる部分にはあの異様な海綿体がおさめられているなんて、誰が想像し得るだろう。
 もう男とか女とかそういう問題じゃない。だめ押しだった。彼女――いや、彼だ――の存在について、わたしの脳も心も、これ以上処理することは不可能だ。
 わたしの驚きに気づかないのか、彼はそのまま頭を下げた。
「ご、ごめんなさい、あの、ぼく千里っていいます、いきなりの非礼はお詫び申し上げます。実はどうしてもお願いしなきゃいけな」
「黙って」
 そう。もう知らない。これは夢だ。夢なんだ。都合のいいことにタイムリミットが近づいている。跳び箱のくすんだ布が薄紅色に染まる。明かり取りの薄汚れた小窓から、西日がほのかに差しこんで、見つめ合う互いの顔を片側だけ照らしていた。
――日が沈む前に、わたしはここから立ち去らなければならない。
 先輩がわたしに課した、たったひとつの暗黙のルール。
 だからそう、もういいのだ。もともと立ち去るつもりだったのだ。
 縋るように物言いかけた相手に背を向けて、数歩で扉に到達、振り返らずに開けて出る。一歩踏み出せば残暑の風に髪があおられた。高みの空は暮れている。
 一呼吸後、鍵もかけずに駆け出した。
 忘れよう。なにもなかった。忘れよう。わたしは誰にも出会わなかった。
 茜の迫る空の下に出ても、薄暗い階段を駆け上っても、廊下を辿っても、いつものように閉校間際まで役員仕事をこなしても。混乱する気持ちも、舌にはりついたねっとりとした唾液の感触も――脳裏に焼きついた、捨てられた犬のような頼りない涙目も。夢のように消えてくれたりはしなかった。

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