目次

千里の裾野

プロローグ
1
第一章
1 / 2 / 3
第二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6
第三章
1
第四章
1/ 2
第五章
1
第六章
1
第七章
1 / 2 / 3
第八章
1 / 2 / 3 / 4 / 5
第九章
1 / 2 / 3 / 4
第十章
1
第十一章
1 / 2 / 3 / 4
第十二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8
エピローグ
1(完)

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エピローグ / 未明ヶ丘冬子は、遠い夜明けを待ち望む

 
 

 いつの間にか、秋の日が傾いている。
 未明ヶ丘冬子はデスクから立ち上がり、カーテンを引いて淡い西日を遮った。マンションの地上十三階からは夕景を一望できるけれど、彼女の興味を惹くことはない。
 鍵つきのドアを通り、瀟洒なダイニングキッチンへ。
 手早く夕食の支度を二人分整えた頃、連絡よりも一時間ほど早く、白髪の目立つようになった父が数週ぶりに帰宅する。
 冬子は「娘」らしく真面目くさってお小言を与え、違約の罰としてアルコールを禁じ、ともに夕飯のテーブルを囲む。
「うん、……うん。またバイト。急に帰ってくるから休めなかったよ。ごめんね」
 けど普通の学生みたいなこと、たくさんできて嬉しい。ありがとう。
 味噌汁の椀を片手に、作り笑顔を無邪気にまとう。効果のほどはわからない。少なくとも父は、母を愛していた日々のような優しい瞳で冬子に応えた。
「もう間に合わないからすぐ行くね」
 膳を片付けて最低限の身支度をし、父にもらった腕時計をつけ、自室のドアには鍵をかけ、靴を履く。

「今度は外でご飯食べようね。行ってきます、『お父さん』」。

 ――これで半年、どうにか半年。
 あと半年、仮面を被り続けられるだろうか。彼女と違って冬子の嘘には年季が入っていないから、どこまで騙しおおせるものやら。
 エレベーターを降りるとすぐ、腕時計を外して鞄の底に押し込んだ。

*

 ふと仰いだ空の高さに、冬子は駅に向かう足を止めた。
 駅前通りの建物は西日に照らされて、頬をひととき染めている。じきに昏い冬を呼び込むとわかっていても、夕陽は遠く眩く、温かい。

 冬子は父親の要望通りに進学した。彼が出向先で密かに購入していたマンションから、近場の大学に通っている。
 新生活は、「年頃の娘」らしく自室に鍵をつけるところから始めた。夜間帯のバイトを選び、不意を打った来訪は「親子」らしくやり過ごし、地獄の底に落ちることなく、踏みとどまることが、できている。

 香緒花に想いを告げられた日も、秋の初めだった。
 彼女に抱く愛おしさが恋なのかといえば、正直なところ冬子には自信がなかったけれど。どうしてもと、香緒花が泣きそうな顔で手を引いたから、守れなくてもいい約束を、ひとつした。
 地獄の入り口で一年間だけ、待つことにしたのだ。
 優等生の後輩が、もしも実家を離れて、同じ大学まで追ってきてくれたなら。「友達と住むのだ」と、父を振り払うことができるかもしれない。父の代わりに桧山香緒花の手を取ることもまた、純潔の代償としてからだを捧げる行為、なのかもしれないけれど。
 でも、彼女と過ごした温かな日々は、宝物のように優しかったから。その光を抱いて地獄に落ちようと思えるくらいには大切な子だったから、香緒花とならば構わないような気がしたのだ。

 心変わりされるかもしれない。それでもいい。
 香緒花が好きでもない複数の男と寝たのを知っても、あの子を汚れているとは思えなかった。からだに誰を入れたところで、あの子はあの子のままでしかない。自分で思っているより嘘が下手で、迂闊で、粉雪のように純粋な――冬子のよく知っている、愚かな香緒花だった。
 なら、もしもこのまま地獄で鬼に喰われても。自分だって、そうあれるかもしれない。歩く死骸に成り果てても、骨の一部は変わらぬ色で、いつか瞬く星に見つけてもらえるかもしれない。

 秋風が、茜の空へと抜けていく。木々は葉を染めてやがて散らし、春一番を待ち望む。
 春の気配まで、あと半年。
 その先に待つものが他人にからだを委ねるだけの人生なのか、それともまったく別のなにかなのかは、冬子にもわからない。それでも可愛い香緒花が、差し伸べてくれる温かな手を、楽しみに待っていられる少しの間は。夜の闇を潜り抜けるまでは、坂道の脇の草むらで、膝を抱えて生きていよう。

だから――未明ヶ丘冬子は、お日さまを待ち望んで、茜に染まる千里の裾野に佇むのだ。

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