目次

千里の裾野

プロローグ
1
第一章
1 / 2 / 3
第二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6
第三章
1
第四章
1/ 2
第五章
1
第六章
1
第七章
1 / 2 / 3
第八章
1 / 2 / 3 / 4 / 5
第九章
1 / 2 / 3 / 4
第十章
1
第十一章
1 / 2 / 3 / 4
第十二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8
エピローグ
1(完)

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第三章 / 未明ヶ丘冬子はふたつの鍵を持つ

 
1

 ちゃらり、ちゃらりと硬質で涼しげな音。ふたつのうちからひとつを選び、ドアノブに挿してくいとひねる。キーホルダーを手首ごとポケットに突っこみ直し、青錆びたドアを引き開けた。
 どうと風が吹き込んでくる。重ね雲の灰色は湿っている。旧校舎の屋上、雨の予感にもつれた栗毛を泳がせて、軽やかに緑のフェンスへ歩み出た。ふとももに張りつきはためくスカート丈はごく短い。
 ポケットに両手の指を突っこんだまま、緑の網に頭をつける。キイと軋んでフェンスが鳴いた。
 ざわめく樹林の途切れるあたりを目で追って、未明ヶ丘冬子は遥か地上を見下ろした。長い足がすらりと伸びて、短いスカートの裾がはためいては青い薄布を露わにしていた。気にして隠すのかと思いきや、意外にも手はポケットの中を探るだけ、恥じる様子は微塵もない。屋上はいつも彼女の貸切だ。
 ポケットから四角い定期サイズの紙箱を出す。火をつけるには風が強い。が、頓着せずに一本取り出し唇に挟み込んだ。くわえるだけでも気分は出る。
 未明ヶ丘冬子の秘密喫煙所は。
 ……なにもゴミ箱のような体育倉庫ばかりではない。
 変化の乏しい表情に僅かの奇妙な波紋が起きる。
 立ち入り禁止区域に出入りできる複製キーをもうひとつ持っていることを、未明ヶ丘冬子が、親交のある後輩に――白雪の如き純粋さで先輩、先輩、と慕い来る黒髪の優等生に――教える予定は今のところ、ない。初々しい後輩を拒絶しているわけでは、ないのだが、一人の時間も必要だ。そう考えて屋上にいる。
 地上から見咎められる心配はあまりない。旧校舎は敷地の裏手にあたり、限られた部活以外の人通りが殆どない。彼女の立つ場所は給水塔と体育館の屋根によって、好い具合に目隠しされている。
 唯一見下ろせる北西門は、市東部のバイパス開通により最寄りのバス停が変わったため、ここ何年も使われていない。朽ちるままに、ぐるぐると太い鎖で施錠されている。さらにうっそり茂る高い木々。枝の張り出す手前に体育館の屋根。その隙間、体育館の裏手から狭い足跡をくぐりぬけて、廃墟と化した体育倉庫へ向かう細い小道がちらと見える。
 冬子は思い出したように胸元からライターを取り出し、顔の脇で手をかざした。幾度目かの試行で風に逆らい無事に火がつく。
 遠巻きに侵食する「噂」という名の黒い糸とはまた違う、直接的でわかりやすい毒物を胸一杯に吸いこむと口の端が自然に緩んだ――ああ、今日も不味い。煙が翻弄されては吹き上がり迷いを天頂へと昇華してくれる。
 不意に、空を揺るがすようにごいん、がおん、ぎいん、……と鐘が鳴った。
 放課後である。
 一気に弛緩した足下の無機質な塊は、ややあってから気怠げに生徒たちを吐き出していく。
 間もなく、冬子の目は体育館から横へと泳ぎ、ふっと蟻のような黒点を捉えた。いつものように腰まで艶めく黒髪が廃墟へ向かう小道を通る。なにがあったのやら腕にパンとペットボトルを抱えながら。いつもは手ぶらなのに珍しいこともあるものだ、と冬子は煙草をくわえなおしてやや前傾姿勢になった。
 枝影に消えるところで見失い、重苦しい天を目だけで仰げば、ゆうるり回る鳶がいる。脚に肌にまとう外気は秋だ。
 毎日けなげなことだ、と煙は雲に入り混じる。
 赤く細いカチューシャ。指通りよさそうな黒髪、育ちの良さが滲む出で立ち。彼女はカステラを浸し含ませる乳のように真白だ。加工も殺菌もされないうちは人の口には運ばれまい。控えめな佇まいのうちにあやうさと底なしの豊かさを秘めている。

 未明ヶ丘冬子は知っている。自身が尊敬にも憧憬にも値しない、ただの外れものでしかないことを。
 この身ひとつの人型に、なにを慕うことがあるのだろう。
 ポケットに突っ込んだ側の中指先が、キーホルダーにちゃらりと触れた。
 後輩に見つからぬように日々を送り、体育倉庫を避けながら。今日も右を。明日も右を。明後日も。昨日も。おそらくこの先、日暮れが放課後を塗りつぶす憂鬱な秋の終わりがくる日まで、ふたつの鍵のうちの、右を選び続けるのかもしれない。高い空に囲まれた、彼女一人しか知らぬ煙まみれの展望台を、喫煙室と定めたままで。その頃には、諦めと、もしかしたら安堵ともに、優秀で無垢な後輩も未明の虚構に気づくだろう。
 そんなことを、益体もなしに考えながら、地上の小道をぼんやり見つめ。
 未明ヶ丘冬子はふたつの冷たい金属片を、手のひらのうちで弄ぶ。

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